「神に感動し、神を喜ぶ」
そして、自然界の生き物の中で3種類全て持っているのは人間だけなんですね。つまりこの世界に生息しているすべての動物、全ての昆虫、すべての魚類、目を持ってる全ての生き物はみんな白黒の世界しか知らないんです。自らは原色の色鮮やかな姿をしているのに本人たちは白黒にしか見えてないっていうんですね。このことは不思議な事だって思いませんか。色というものを知らない動物の毛皮がどうして鮮明な色になっているのでしょう。白と黒の2色だけでデザインされていても彼らは一向に困りません。カラーでも白黒でも見えている景色は同じなんですから。生きていく上では必要ではない美しいカラーデザインの理由は適者生存の理論では説明することができないのです。生き物がカラーデザインであるのはフルカラーでそれを見ることができる人間がいて初めて意味を持つのです。この世界は神様の栄光を人間が見て感動するために作られているんですね。 聖書にはこう書いてあります。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」
あなたが存在する目的とは
ここに3つのことが語られています。
第一に神は万物の存在の目的であるという事です。
先日、定年退職を迎えた私の友人が田舎に小さな小屋を建てました。退職金をいくらか使って読書のために手作りで庵を立てたのです。彼は大変器用な人で、ほとんど一人で大工仕事に打ち込み近くから廃材をもらって完成させたのです。この庵は彼が材料を集め、彼がデザインし、彼が労苦して立てました。彼の趣味を楽しむためです。したがってこの小屋の存在目的は作者のためにあると言っていいのです。
ではこの世界、宇宙、万物は何のために存在しているのでしょう。この世界をデザインし、工夫し、たった一人で作り上げた方のために存在しているのです。この天地万物をたったお一人で創造された方が聖書の語る神なのです。この万物の中にはあなたも含まれています。したがって、あなたの存在目的は実に神なのです。あなたは神のために作られたというのです。
神のプランから逸脱した人間
第二に神様があなたに持っておられるプランはあなたを神の栄光に導くことだというのです。神様の祝福を仰ぎ見てその偉大さに圧倒され神を喜ぶためにあなたは造られたのだというのです。神様をあなたを不幸にするために造ったのではありません。あなたを神の準備した永遠の祝福の世界に導くためにあなたを造ってくださったのです。しかしここに問題があります。人はこの神様から離れ神の目的を無視して生きているからです。この神から離れて生きる事を聖書は罪というのです。
イエスがもたらす神の救い
第三に、この罪の問題を解決するため神はイエス・キリストを十字架の上で裁いて下さいました。それは私たちの罪を跡形もなく消すためなのです。
実は大阪市の北の方にとある市場があるんです。大阪名物のおいしいものがたくさん売られている有名な市場です。しかし、この商店街であることが今注目されているんですね。実はこの市場にある魚屋さんの店の前に大きな張り紙がしてあるんです。いったいなんて書いてあるんでしょう。当店では万引き犯人を捕まえても警察に通報引き渡しをしません。ただし犯人の顔写真を貼り出させて頂きます。と書いてあるんです。そして、その張り紙の隣にどアップの顔写真が6枚も貼られてるんですね。このお店では毎年毎年数十匹の万引きがあって店の経営が傾くほどでした。しかし、この顔写真ド・アップ張り出し以降被害が十分の一に減ったっていうんです。しかし貼り出されている人はおそらく二度とこの商店街に近づくことはできないでしょう。このお店では警察には通報しないんです。罪も問いません。被害届も出しません。罪は赦すというのです。しかし、やった事はいつまでも、いつまでも記録に残して公開し続けるのです。犯人たちは赦されてはいるけれど半永久的に肩身の狭い思いをし続けなければいけないのです。
神が備えられた罪の赦し
しかしキリストによる罪の赦しはこのような赦しではないのです。神様の裁きに一切引き渡されないだけではなく神の前に一切の罪の記憶が完全抹消されるという赦しなのです。キリストがあなたを赦すと言われる時、その赦しは過去の記録、過去の記憶そのものを消すという事なのです。神様の前でまるで一度も罪を犯したことがない者であるかのようにみなされるという事なのです。なぜそこまで徹底した赦しを与えてくださるのでしょう。罪の苦い記憶を持ったままでは神様の準備された栄光を喜ぶことができないからです。神様の栄光の前に胸を張って立つことができないそのすべての理由は神が跡形もなく消し去ってくださったというのです。
目的を見失うことなく生きる
江戸時代、貝原益軒という儒学者がいました。養生訓で有名ですね。彼は牡丹の花をそれはそれは大切に育て愛でていたのです。ところが外出中、留守番の若者がちょっとした不注意でその牡丹の花を茎からぽっきり折ってしまったのです。帰宅し益軒はこっぴどく怒られると怯えていた若者にこう述べて赦したのです。私が牡丹を植えたのは楽しむためであって、怒るためではない。そもそも何のために牡丹を植えたのかという目的を見失わなかった益軒は自分を見失わずにあるべき姿に立ち戻ることができたのです。
では人間の目的はなんでしょう。神の栄光を表すことなんです。その目的を達成する道はイエスキリストを自らの救い主として信頼することなのです。
どうぞ、あなたもこのイエスキリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めしたいと思います。