「罪人のための贖い主イエス・キリスト」
先日、ある北関東の集会、教会に招かれた時に面白いものを見てしまったのです。とってもね仲の良いご夫婦です。クリスチャンの夫婦でね、なんかこうずっと新婚時代みたいなんだなあと思いながら見ていたんですけれども、一家に一台では自動車が足らない。一人一台でないと困っちゃうっていうG馬県の人なんですけど。軽自動車があるんですけどね、ご主人が奮発しましてですね、インサイトって言っていうんですかね、ホンダのねハイブリッド車ですよ。新車で買ったんです。それをですね、狭いご自分の家の駐車場に並べてね、君は軽、僕はハイブリッドいうことでね、やってらっしゃったんですけども、奥様もやっぱり腕に自信があるんですよね。だってG馬県の人だから。私も乗ってみたいっていう誘惑にもうね我慢できなかったんですね。とうとうね、そのハイブリッド乗ったのはいいんですけどね、前の道が狭いんです。その左に切るときに、後部ドアの左をね、こすったんです。「ガリガリガリ!」って。まあね、その日一日ご主人ね、ずーっと不機嫌。口数が少ない。もう心の中で「新車なのに…」。
まあ、これですね、このスマートペンっていうのがあるそうです。それでこのカー用品の店に、スマートペンでこすったら治るかなあということで見せに行くといった時に、彼はそれ行くんですけどね、彼、実はね、一個弱点がありましてね、足が沢山ある生き物嫌いなんです。特にねクモ。そのクモがたまたまね、フロントガラスにぼとって落ちたん。その時ね、きゅいっとハンドル切りすぎてね、壁と軽の両方に当ててるんです。まあ、マーフィーの法則という本があるそうです。その本の中にはね、楽器も車も家も新品の時に傷つくそうです。新車の時に限って、この傷ついてしまうという風にね、彼自身は「法則通りだ」みたいにね思ってるんですが、自分で言って苦笑いしていました。妻が付けた傷は新車なのにって言うんです。自分が付けた時には新車だから傷つくんです。人がやったミスは致命的なミスなんですよ。でも自分がしでかしたことは法則なんです。同じミスでもね、人がやった時と自分がやった時では裁きの基準が違うんですね。人がやった一ミリぐらいのミスはね、もう二メートルぐらい。私がやった五メートルぐらいのミスはね、もう二ミクロンぐらいですよ。もうパンツのゴムみたいにね、生地が伸びたり縮んだり、伸びたり縮んだり。それでは自分自身が罪人なのかどうかというのは分からないのは当然です。この世界が正常でない理由
実は聖書を見るとね、絶対的基準者である真の神様から離れた人間は、自分自身が神様の代理人のようになり、自己中心となり、自分自身が基準となって自己中心の歩みをしているのだと言うのです。そして、この自己中心の歩みをしている人たちで成立している世の中は、衝突の繰り返しなのです。なぜこんなに世の中ってあってはならないことがあるんだろうか。それは一人一人が神のように振る舞ってるからではありませんかと聖書は語るんですね。
聖書が語る「罪」とは
13世紀にスペインの王様でアルフォンソ10世という王様がいたんですね。その王様がね、太陽系の動きをこう調べていながらね、本当に80以上の円運動を連立しなければならなくなってしまったんですね。それはね、天動説に立っていたからです。地球が中心で太陽が回ってるんだという宇宙観に立つとね、天体の動きというのはものすごく複雑になるんですね。そうではなく地球が動いてるんだという風に分かりますと、実に単純な成り立ちであるということが分かるんですね。この中心であるべき方から離れてしまうこと、聖書はそれを「罪」と言います。そしてその結果、人は死ぬものとなった。太陽から離れた地球が、死の星となり、根から切られた植物が枯れゆき、また体から離れた手足は腐っていくように、命の源である神様から離れた私たちは、今、失われているものです、と聖書は語ります。しかし、その失われているものをもう一度取り戻すために、神はご自分の一人子、イエス・キリストという方をこの世界に送ってくださって言うんです。
神は実にその一人子をお与えになった。私たちを救うためにキリストをお与えになったって言うんですが、この「与えた」という言葉はね、捨てたとか、見限ったとか、見捨てた、放棄したという意味があります。神様はキリストを見捨てることによって私たちをお救いになった、というのがこのメッセージの意味なのです。
先が見えないゆえに起こる悲劇
私は今から10年ほど前に、ある地方都市のクリスチャンのご家庭の家にね、数日間お世話になりました。夫婦二人だけでお子さんがいる気配がないんですが、応接室に行きますと、爽やかな青年の写真が写真たてに掲げられてるんです。「息子さんですか」と言ったら、「ええそうです。」「今は社会人なんですか」と言う風に聞いたら、「死にました。大学生の時に亡くなったのです。」私はいらんことを聞いてしまったと思って、すぐに話題を変えようと思いましたが、お父さんの方が問わず語りに語り出すんです。
実は、彼は、東京の非常に優秀な理科系の大学に進むんですが、一年生の夏休みの時に友人を連れて家に戻ってきたのです。彼の家は、すぐ近くに海水浴場がありました。自分のクラスメートたちに、その海水浴場に連れて行ってね、一緒に遊びたいという風に思ったんでしょう。「父さん何々海岸に行くから。」「うん、行っておいで」という風に送り出したんですが、そこにダイビングスポットがあったんです。普通は岩から飛び降りるときにね、足から飛び降りますよね。彼はその時調子のってたと思います。頭から行ったんです。そして首の骨を折って、まもなく亡くなったんです。もうずいぶん昔の話ですっていうふうにおっしゃっていましたけれども、その事故があった当時ね、このお父さんが繰り返し繰り返し考えたことがあるそうです。それはね時間を巻き戻すことが出来たらいいのになあ。あの事故が起こる前の時間帯まで戻ることが出来たらどんなにいいだろう。私たちは未来に何が待っているのか分からない、だから平気で生きてるけど、あの事故が起こる前の時点まで戻ることが出来たら私は何としても息子を止めたと思う。「父さんクラスメートを連れて海岸に遊びに行くよ」って言った時に「やめなさい!行ってはいけない。」「どうして?」「どうしてでも行ってはいけない!」っていうふうに止めたと思う。でも自分は未来が分からなかったから笑顔で送り出してしまった。
神の思いを知るきっかけに
そしていつまでもくよくよしてたんですが、あるときね、神もまたご自分の一人子を亡くされた神なのだ。この天地万物をお造りになった大きな大きな大きな存在である神様は、ただ天の高い所から私たちを見下ろして眺めているだけの神ではない。この方はご自分の一人子を一度なくしてくださった。しかも、神はご自分の一人子をイエス・キリストとしてこの世界に送り込んだら、どんなにひどい目に遭うのかということをあらかじめ分かっていたとしても、送り出すのをやめなかった。私は自分の息子がこれからあの場所に行けばひどい目に遭うということが分かったら、絶対に止める、絶対にそこに行くなと阻止する。でも神様は人間の世界にキリストを送ったら、どれほど親切が無にされるか、どんなにひどい目に遭うのか、どんなに愛を尽くしても見返りがないのか、最後は十字架に釘づけられて、呪い殺される結末になるのか、ということが分かっていても、さあ行っておいでというふうに送ってくださった方だというのです。なぜでしょうか。この罪のない方が、あの十字架の上で、私たちの罪の身代わりとなる以外にこの私たちが罪の結末から逃れる方法はないからです。
キリストの永遠の愛がここに
神は、あの十字架の上でキリストをお見捨てになるほどにあなたを愛してくださった。キリストの命と交換してでもあなたを失いたくないと本気で思い、それを実行に移してくださった方。それがあなたの造り主なのです。あなたはどれぐらいに愛されているでしょう。神が実にその一人子をお与えになるほどに愛されているのだと聖書は語ります。そしてこの死んで三日目によみがえってくださったお方、このお方は私たちに永遠の命を与えるためにそのようにしてくださった方であると語ってるんですね。どうぞみなさん、この永遠の救い主、命の造り主、そしてあなたのための贖い主、イエス・キリストをぜひ信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。