新約聖書
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.705 2013年9月29日

「神の望み・あなたが永遠の命をもつこと」

 みなさん、こんにちは!

 こないだですね、あの、万引きGメンのドキュメンタリー番組があってね、それを見てました。万引きGメンの人たちがね、「あなた、ちょっとこっち来なさい!」って言うときに、5人に1人、20%の人が言うイイワケは何かと言ったらね、「今払おうと思ってた!」と。居直るんですね。

居直り
 ところでみなさん、人間が罪を犯したときにね、取りうる態度っていうのは3つあると思うんです。1つはね、居直りです。

隠蔽・ゴマカシ

カット
 2番目にね、罪を持ったものが取りうる態度は何かといったら、隠蔽・ゴマカシです。私はね、小学校5年生のときに、高野山に林間学校というのに行ったんです。でね、その二日目の昼にですね、札付きの問題児という…まあね、ジャイアンと言うことにしておきましょう。ジャイアンみたいなヤツが来たんです。私はですね、こう、ぼうっとしていたので逃げ遅れたんですね。「高原、遊んだるわ」言うてね、いらんわそんなん。でも、あーっと言っている間にね、彼は何を思ったか私をグッと持ち上げて、投げ込むふりをしたんです。ところが、手が滑りましてね、ほんまに投げ込んだんですよ。私は屋根をゴロゴロごろごろ転がりながら、「なんでや〜、ふじょうり〜」みたいな世界、そしてですね二階から地面にバーン、背中を強打して、もう苦しくて苦しくて、たまらなかったんです。フッと隣見たらね、私を投げたジャイアンも一緒に落ちてるんです。私が落ちたのはジャイアンが投げ飛ばしたからです。しかし、ジャイアンはなんで落ちてるんですか。彼は、一秒か二秒くらいかの間に、「怪我をすれば揉み消せる」と思ったんです。「僕はイタズラでそんなことしてしまいましたごめんなさい!」って、なぜ言わないんですか。赦されるわけがない、と思ってるからです。ただし皆さん、この隠蔽には問題がありますね。彼はこの事件以後、まともに私の顔を見ることができなくなったのです。

自首・赦しを請う

 罪を持ったものが赦されるために一番いいのは、自首することです。そして、赦しを請うことです。「私はこういう悪いものです、こんな私を赦してください!」と言うことです。しかし多くの場合それができないのは、謝ったって、赦されるという保証がないからです。しかし、聖書の神は、悔い改めて帰ってくるものを赦すという保証を、人類に与えてくださったのです。それがイエス・キリストの十字架なんです。

恐ろしい処刑方法、十字架刑

 この十字架っていうのはね、皆さん、ひどい処刑方法です。まず、十字架刑に決まったものは、真っ裸にされて、そして鞭で打たれるんですが、九つに枝分かれしている鞭で、その鞭の先端には、ガラスや貝殻や金属片が結わえ付けられている。先端の金属が体の中にめり込むんです。ぞれをもう一度ビュッと剥がしたときに、筋肉が千切れ飛ぶんです。歴史の本によると、内臓がはみ出したというような記録まで残っている。それを39回打ち据えて人間の尊厳をゼロにした上で、自分が釘付けられる十字架を、背負いながら処刑場まで運ぶのです。処刑場に着いたら、両手両足を3本の犬釘で思いっきり打ち込まれるのですが、それを垂直に立てて、穴にズシッと入れる。自分の体重が自分の体を引き裂いて、最終的には窒息死するという、おぞましい、拷問と見せしめを兼ね備えたような処刑です。

弟子からも見捨てられた方

 その十字架の上で、キリストが「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈っているそのことばを聞いていた、唯一の弟子がヨハネという人物です。ところで皆さん、イエス・キリストがこの世界にお越しになったとき、この方はね、目の見えない者を見えるようにし、歩けない者を歩けるようにし、死に至る病を癒し、差別に苦しんでいる者をかばい、心へし折れた者に勇気を与え、罪責と良心の呵責でおののいている者に罪のゆるしを与え、死に怯えている者には天国を約束し、人が人生の中で打ちのめされている時に、体を張って助けてくださった方でした。しかし、そのイエス自身が一番苦しいとき、このイエスの側に立って庇った者は、誰もいなかったのです。人間に親切の限りをしても、見返りはなんにもない。良いことしかしなかった方、正義のことしかしなかったお方、その方があの十字架に釘付けられたとき、弟子からも見捨てられて、皆からあざけり笑われながら死んでいった、

十字架は敗北のシンボルではない

 その場面をヨハネが見たときに、おそらくこう考えたんじゃないでしょうか。「人生ってなんて非情なんだ。なんて不公平なんだ。」十字架は、正義が悪に屈服した、敗北のシンボルのように見えたかもわかりません。しかし、この十字架から3日目に、死からよみがえったイエス・キリストと再会したヨハネは、復活のイエス・キリストご自身から、何のための十字架であったのかということを改めて聞いて、わかったんです。十字架は敗北のシンボルじゃない。あの十字架の中にこそ、神様の愛が表されている。なぜ、正しく真実なる方が、十字架にかかって呪われなければならなかったのか。私たち人間の、罪の償いのためです。神は、私たちの罪を私たちに責任追求するのではなく、イエス・キリストに償いをさせた。それが、神が実にそのひとり子をお捨てになるほどに罪人・世を愛されたということばの意味なのです。神が私たちに望んでおられること、それは、私たちが1人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ、ということなのです。

真の救いは復活のいのち

 みなんさん、私たちは、生きてますよね。いのちを持ってるから、生きてると言うのです。でも、私たちはいつか死にますよね。なぜ死ぬんでしょうか。一言で言うと、私たちのいのちに、死がプログラムされているからです。世の中から、全部の戦争と全部の事故と全部の病気が消滅したとしても、死は残りますよ。寿命で死ぬではありませんか。この、死につつある命しか持っていない私たちに、死を三日目に突き破ったキリストの、復活のいのちを移植することが、救いなのです。たとえ死んでも、永遠の天国に行くことのできるいのち、神様はそれを私たちに与えたいと願っているのです。

マリガン 失敗してもやり直し出来る人生

 最後に1つお話ししたいと思いますが、経営コンサルタントの、世界的に有名な人物に、ケン・ブランチャードという人がいてます。このケン・ブランチャードという人はクリスチャンです。彼がね、あるプロゴルファーと一緒に本を書いたんですね。その本を読んで、なかなか面白いなあと。非常に、この、示唆されることが多かったんですね。実は、その本には何が書いてあるかと言いましたらね、「マリガン」ということについて書いてあったんです。第一ホールの第一打、スコーン…、失敗したら、心理的にダメージですね。ずっと尾をひきます。もっぺん打ち直しを認めることをマリガンと言うそうですが、これはね、アメリカのデービッド・マリガンという人が提唱して、それで広がっていったんですが、もちろん、プロのゴルフトーナメントでは絶対に認められてないんですよ、これ。マリガン。ゴルフっていうのはね、ジッとしてる球を転がして穴に入れる競技なんです。それだけ言ったら身も蓋もないんですけどね、技能3割、メンタル7割の競技が、このゴルフという競技なんだそうですけれども、まあ、皆さん、プレッシャーがかかるとね、プロでも30センチ外すって言うんですよ。失敗せんとこ、失敗せんとこと思うと、余計に失敗するって言うんです。この、失敗したらあかん!というプレッシャーからは、どうやったら開放されるんでしょうか。失敗してもやり直しがあるぞ、という考えなんです。

究極の赦し イエス・キリスト

 皆さん、人生で失敗しない人いますか。失敗を恐れるということが、いかに人間を萎縮して、生きれたはずの人生を生きれないようにしてるのかということの証拠です。しかし皆さん、究極の赦し、そして私たちの人生の伴走者となり、助け主となり、いつも寄り添い、私が喜ぶときには一緒に喜び、私が泣くときには共に泣いてくださる方、この神を味わう能力のことを、永遠のいのちというのです。あなたの人生に計画を持ってる創造主を信じ、あなたが滅びないことを望んでいる神様が、あなたのために救い主イエス・キリストを遣わして下さったことを信じ、この、死んでよみがえって下さった方と共に歩むということ、これが、神が私たちに無条件で与えて下さっている救いなのです。どうぞ皆さん、このイエス・キリストをご自分の救い主として、信じ、受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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