「キリストの元に身を置く」
今から数か月ほど前、滋賀県の赤坂山で二人の小学6年生が行方不明になる事件がありました。集団で登山していたのですが、自分勝手に群れを離れて、別ルートで下山したところ途中で道が分からなくなってしまったんです。警察はヘリコプターを出動させ、180人体制で探したのですが見つかりません。しかし翌日、二人はなんと自力で下山したんです。いったいどのようにして助かったんでしょう。山中に迷い込んだ二人は川に沿って歩いていけば、いつかは琵琶湖に出ると思い、ひたすら下って川岸を進んだんですね。ところが、滝つぼで行き止まりになってしまったのです。そこで翌朝、今度はひたすら山の斜面を登り辺りを上から見渡せるところに出ようとしたんです。二人は、そこで山小屋を見つけるんですね。あの山小屋まで行けば山小屋につながる道があるとふんだんです。二人は、必死で山小屋を目指しました。あの山小屋まで行けば何とかなると分かったからです。そして本当になんとかなったんです。遭難したとき彼らがパニックにならずに済んだのは、解決の目印を見つけたからです。あそこまで行けばきっと助かるという救いの目印を発見したことが大きかったんですね。
聖書が語っていること
さて聖書は人生に遭難する人間に、救いの印を掲げて、呼びかける書物です。イエスキリストの中に人生の答えと解決があるということを示す神の証言が聖書のメッセージなのです。この聖書にこう書いてあります。
「神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
私はここから三つのポイントを考えたいと思います。
神の支配を認めてもたらされる平安
第一に、キリストを信じる人はいかに自分を取り巻く状況が絶体絶命であったとしても、キリストの支配の中にあるという事実です。たたりや呪いや因縁の支配にはありません。あなたに対して最善以外を決してなさらず、無駄な試練が起こることを決してお赦しにならないキリストの支配の下におかれているというんです。それを信じ、この神さまの約束に立つとき、私たちはパニックに陥らずに済むのです。
反抗期のお子さんに手を焼くご両親は悩みが深いですね。その子どもに期待すればするほどその期待を裏切られる時に悲しみと怒り焦りが湧いてきてもうどうにかなりそうになります。いったいどうすればいいでしょう。上手く乗り越えていく秘訣の一つは、親自身が幸せに生きる事ではないかと思うのです。親が上に立って、子どもをよく育ててやろうと乗り出すと、かえって問題がややこしくなっていくように思います。自分は子どもにとっては親であるけれども、自分も神さまにとっては一人の子どもに過ぎない。そして神は、キリストにあって私を一人前の大人にするために子どもを用いて訓練してくださっていると受け止めたらどうでしょう。私は何でも分かっている万能の親ではなく、神の前には一人の人間、一人のキリストにある子どもです。ですから、神の子どもとして、神の前に訴え、約束を信じ、決して、神は悪いようになさらないと信頼して生きるという事は、平安の秘訣ではないかと思います。
私の罪の身代わりとなられたイエス・キリスト
第二に、キリストを信じる者には贖いすなわち罪の赦しが与えられるというのです。罪の赦しのことをここでは贖いと言っています。贖いとは代価を持って買い戻すという意味です。
随分昔、私はラストエンペラーという映画を見ました。清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の生涯を描いたものです。彼は、まだ幼いの時に世界最大の帝国清朝の皇帝になることがすでに定められるのです。その彼がまだ少年であったころ、弟が聞くんですね。もしお兄様、あなたが罪を犯したらどうなるの?溥儀少年は答えます。僕が悪いことをしたら、他の人が僕の代わりに罰を受ける。そう言うと、目の前で、国宝の大きな大事な高価なツボを地面にたたきつけて割ってしまうのです。次の瞬間何が起こったでしょう。僕の一人が思いっきり殴り飛ばされるんです。これによって、次期皇帝に直接手をかけることなく、しかも、罪の恐ろしさを分からせようとしたのです。しかし、これは、あまり良い教育効果を生みませんでした。なぜなら溥儀少年にとって、自分の代わりに殴られる僕には日ごろから何の親しみもなかったからです。彼らは溥儀少年にとってはいくらでもスペアのある取り換えのきく人々であったからです。しかし、もし自分の身代わりなるのが、弟であったり、母親であったり、妻や娘であったらどうでしょう。自分にとって大切な人、自分のことを大切に思ってくれる人、自分を心から愛してくれている人が自分の過ちのせいで、拷問されたり、罰を受けたら、彼の心は痛むに違いありません。神は私たちの罪のためにいったい誰を身代りに裁いてくださったんでしょう。神のひとり子イエス・キリストです。キリストはあなたを愛してあなたの罪の贖いの代価となってくださったんです。
神はあなたを天国に招いておられる
第三に、キリストを信じる人は罪赦されたがために、死後地獄ではなく、永遠の天国は行くことが神によって確約されているのです。
ところで、胎児は生きていくのに必要な全ての栄養分や酸素をへその緒を通して受けています。したがって食べ物を口に持っていくための手、それを咀嚼する口、味わうための舌、飲み込むときの食道、消化するための内臓などは、必要ありません。ところが子宮の中では使う必要のない手や口や鼻や舌、内臓が子宮の中で発達し、育ち完成していくのです。どうして使わない臓器が体に備わっているんでしょう。外に生まれ出てから必要になるからです。今使わなくても次の人生のステージにおいてすぐに必要になるので、前もって与えられているのです。
私たちが考える永遠についての思いや死後はどうなるんだろうかという問題意識は、生まれて食べて寝て成長していくというこの世の人生の中では特になくても困りません。人生において使わずに済ますことができる感覚、それが永遠を思う思いです。しかしそんな感覚をなぜ持ち合わせているのでしょう。死後に永遠の世界が待っているということの表れではありませんか。死後の世界は本当にあるのだという事のあわわれではありませんか。実に死後の世界は本当にあるのです。そして神さまはあなたに死後の世界の天国の方に行ってほしいと心から願っておられるのです。なぜならあなたの魂の父なる方であるからです。
どうぞあなたもこのキリストを信じて永遠の命をいただき、そして生ける神さまの完全なる御支配の中に入ってください心からお勧めしたいと思います。