「神になる不幸とキリストを仰ぐ幸い」
私は先日、コミュニケーションの本を読んで大変教えられました。その本によると、伝え方に問題があると伝わらないというんです。「伝える」と「伝わる」は違うというんですね。例えば、成績不振の子供に「勉強しなさい」と言うと、ますますしなくなります。しても駄目だったという経験を積み上げて来たからです。しかし、「一緒に勉強しようか」と言うと乗って来るっていうんですね。「芝生に入らないでください」と看板が建てられていても、人はつい芝生に入ります。禁じられるとしたくなるのが人間だからです。そういうときは「芝生に入ると農薬の臭いが付きます」と伝えるって言うんですね。まあそれでも立ち入る人はいるでしょうが、ぐっと数は減るに違いありません。またレポートの締切日に間に合わなくなった学生が、「先生もう一日待ってください」と言っても、恐らく却下されるでしょう。今まで怠けていたに違いないと思わせてしまうからです。しかし、「クオリティを上げたいのでもう一日待ってください」と言ったらどうでしょう。待ってくれる先生もあるいは出てくるかもしれません。要するに伝え方が大切なんだっていうんですね。そして、最上の伝え方には共通していることがあります。相手の益や祝福を考えて語られる言葉なんですね。その意味で聖書は最高のメッセージだと思います。なぜなら、神が人間の将来と、究極の祝福を持って語られるメッセージであるからです。
神が人間に提供された最高の祝福
それでは今日のみ言葉をお読みしましょう。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
ここには満ち足りた人生を生きるための二つのポイントが紹介されています。
第一に、主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるということです。主イエスの父なる神とはいったい誰でしょう。宇宙を造り、世界を造り、あなたを造ってこの世に送り出した第一原因者、あなたの作者なる神様のことです。この神様の主権を認めて、この神をほめたたえるということです。
私は毎月、都心のホテルで講演会をしています。その会場の隣に大きなコンサートホールがあるんですね。コンサートが重なると、最寄駅周辺からファンでその辺り一帯が埋め尽くされるんです。ところで私は気付いたことがあるんです。ファンは皆、自分があこがれている人に似るということです。倖田來未さんのコンサートの時には、やはりギラギラした女性が多かったですね。綾小路きみまろさんの時には、声の大きい大阪のおばちゃんでいっぱいでした。第九の合同合唱会の時には、何となく皆さん姿勢の良い方ばかりで、いかにも腹式呼吸のスタンバイが出来てるという感じでした。そしてファンはファン同士で話が弾むのです。実に楽しそうです。何かに熱中してる人、誰かの夢中になっている人、誰かの熱狂的なファンというのは皆いきいきしてるんですね。
造り主をほめたたえる幸い
ところで、ファンとは一言でいうと、何かをほめたたえている人ではありませんか。自分を離れて、自分の外にいる対象に向かって熱狂的な愛着を持つ人をファンと言うのです。そしてファンはいきいきしてるんです。少なくとも自分自身にこだわっている人よりも熱く生きてるように思います。人間が我を忘れて無我夢中になってほめたたえるのにふさわしいお方がおられます。それがこの世界をお造りになった神です。あなたの作者です。この人類の救い主をすっかり忘れてしまった人間は、神の代用品をこしらえて熱中するのです。それがアイドルなのです。アイドルとは偶像という意味なのです。
人間を神としたことで生じた問題
私は先日、スーパープレゼンテーションという番組を見て大変心に残ったのでした。その時の講演者は、アメリカの女流作家、エリザベス・ギルバートという人です。彼女は『食べて、祈って、恋をして』という作品を書いて大ベストセラー作家になるんです。全世界で一千万部も売れ、やがて映画にもなるほどだったんですね。ところが、この大成功を収めた直後から彼女の周囲からも、また彼女自身の内側からも、こんな声が聞こえてくるのです。「もう二度とあんなヒット作は書けないんじゃないか。そう思うと不安でしょ。過去の自分を超えられないかと思ったら不安でしょ。」そんな声がずっと響き渡るようになるのです。そして、これは作家だけではなく、作曲家や、画家、デザイナーなど創造的な活動をしている人がしばしば陥る罠なのです。大ヒットを飛ばした後、プレッシャーに押しつぶされ、今まで沢山のアーティストが麻薬や酒びたりになり、そして最後は自殺するという結末に至ってきたのです。それを避けるための方法を彼女は講演したのです。その講演の中で忘れられないメッセージを彼女は放ってくれました。
実は古代ギリシャ時代、優れた芸術家にはジーニアスと言う妖精がついているというふうに言われていたのです。古代ギリシャだけではありません。世界中で長らく創作活動する人は、皆見えない世界からインスピレーションを一時的に貸し出されて、その時に神懸かった見事な作品を作り出したっていうんです。しかしその作品がいったんできてしまうと、インスピレーションは去っていき、アーティストはただの人に戻るのです。ところが今から500年前、ルネッサンスの時代に入ると、ジーニアスの意味が変わったのです。「天才」という意味に代わってしまうのです。つまり、素晴らしいひらめきは人間自身の内部や人間そのものの才能にあるものであって、人間こそは神のごとく偉大な創造主である、神のごとく偉大な存在であると格上げされてしまったのです。そしてここからアーティストの苦悩が始まったと言うんです。つまり、好きで始めた事でも、自分自身を創造の源の神のように考えた時から、自己を滅ぼすものになってしまったのだというのです。自分自身を神として崇める生き方は、結局は人間を不幸にし、滅ぼすに至るのだと言うメッセージであったのです。
キリストの完璧さが唯一の希望と慰め
第二に、この方からのすべての祝福はキリストにあって与えられるという事です。キリストにあるとはキリストを信じることです。そして神からキリストの中に入れられたものと見なされる、という意味なんです。あなたは、「神があなたを愛している」と言われたときに「うん、そうだ」と素直にうなずくことが出来ますか。神があなたを愛し、祝福し、恵んでくださると言われたときに、それを疑うことが出来ませんか。私はつい疑ってしまうんですね。私の内側の考えや過去を見ると、とても神様から愛されるとは思えないようなものがいっぱい入っているからです。だから神様が私を愛すると言っても疑いが生じるのです。しかし、神がキリストを愛し祝福するということについては、私は疑うことはできないのです。なぜならキリストは完璧だからです。キリストにあってというのは、この完璧なキリストの中に入れられるという意味です。キリストを信じる者はキリストの完璧さの故に、神から完全に愛され受け入れられるのですよという約束なのです。 どうぞこのイエス・キリストを信じ、神様の無制限の祝福を受ける者となってください。心からお勧めしたいと思います。