新約聖書
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(第1ヨハネ4:10)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.690 2013年6月16日

「的はずれ状態からの脱出」

 おはようございます。高原剛一郎です!
カット

 今から二十数年前、女優の松島トモ子さんがケニアにある動物王国の取材に行った時のことです。彼女はヒョウに襲われ首を噛みつかれてしまうのです。その時彼女はガリガリと自分の首の骨が砕ける音が聞こえて来たそうです。すぐにヒョウは引き離されますが、まるでシャワーのように自分の血が目の前に吹き出すのが見えたそうです。彼女はドクターヘリで運ばれて緊急入院します。そして検査の結果、首の左側がざっくりとかまれており、あと1ミリずれていたら全身麻痺か即死していたというんです。治療の後で日本に帰国した彼女はしばらく静養しますが、どうも体の調子が良くないのです。そこで改めて日本の病院に入院した結果、大変なことが分かったんです。診察室のレントゲン写真を見た日本のドクターはこう言うんです。「あなたの傷は首の右側です。」「いいえ。アフリカでは左側と言われました。そして左側を治療したんです。」「でも右側をやられていますよ。」「いいえ左です。」「右です。」「左です。」とお医者さんとの間で言い合いになったんですが、結論から言うと、日本のドクターの見立てが正しかったのです。
 何とアフリカのドクターはレントゲン写真を裏返しにして診断を下していたっていうんですね。これでは治療も芳しくないのは当然です。悪くないところを一生懸命治療し、本当に悪い所には手を加えていないんですから。正しい治療の第一歩は問題の原因を正確に探り当てるということなのです。
 ところで、聖書は人類の最大の問題についてズバリ指摘しています。同時にその解決についても明らかにしてるんですね。今日はこの問題と解決を語るみ言葉をご紹介いたしましょう。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

人間が抱える問題の根本原因

 ここには人生を複雑にし、世の中を混乱させ、人類全体を不幸にしている根本原因についてはっきりと書いてあるのです。それは「罪」なのです。人間が抱えている「罪」が人間を破滅に追いやっているのです。では「罪」とはなんでしょう。自分の人生の中から神を追放して自己中心になって生きることを言うんです。この世界の作者の主権を認めず、神から離れて生きることを聖書は「罪」と語るんですね。
 アメリカの大きなショッピングモールであった事件です。一人の主婦が大量の買い物をして自分の車に戻ってみると、見知らぬ若者たちが四人、車を占拠しています。彼女は怒って言いました。「すぐに出て行ってちょうだい!」ところが若者たちは完全無視です。みんな車内で音楽を聴きながらふざけ合っているのです。彼女はボンネットをバンバン叩きながら「出て行ってちょうだい!」と言うのですが、若者たちはその姿を見てゲラゲラ笑うだけなのです。彼女はどうしたでしょう。何とハンドバックからピストルを取り出し、「出なさい!」とすごんだのです。さすがの若者たちも血相を変えて車から飛び出して行きました。

人生の主権者は自分か創造主か

 彼女はほっと胸をなでおろして運転席に座り、鍵をまわそうとするのですが引っかかって動かないのです。何回やってもエンジンがかからないんですね。どうしたものかとふと隣を見ると、何と同じ車種の車が止まってるではありませんか。もしかしたらと焦る彼女の不安は的中します。実は隣に止まってるのが彼女の車だったんですね。何と彼女は他人の車をピストルで脅して奪ってたのです。この女性がカージャック犯人として罪の追求を受けるのは当然のことでした。この喜劇のような悲劇が起こった原因は彼女の勘違いにあったのです。本当は自分のものではないのに、まるで自分に権利があるもののように思い込んでいた、ということが大きな問題の原因なんです。
 ところで、私たちは自分の人生や、自分の命、そして生きて行くのに必要な空気や、水や、地球を使うのは自分の当然の権利だと思ってはいませんか。しかし、それらは本来人間のものではないのです。地球も自然界も命も人間が作ったのではないからです。この世界の本当のオーナーは創造主です。この創造主のものを私たちは使わせてもらってるんですね。ところが創造主など関係ない、神などいらない、と言って神を人生から追い出して生きるなら、車からその車のオーナーである若者たちを追い払った女性とやってることは変わらないのではありませんか。神を追い出して自分中心に生きること、これこそが人生を混乱させている最大の原因なのです。いや混乱どころかこの罪が人間に死をもたらし、また死んだ後に永遠の裁きをもたらしたと言うのです。神さまはこの罪を人間から拭い去るために、罪なき神の一人子、イエス・キリストを十字架の上で身代りに裁いてくださったのです。

完成されている救い

 星野富弘さんの詩に「竹」という作品があります。

「竹が割れた こらえにこらえて倒れた しかし竹よ その時おまえが苦しむ仲間たちの背の雪を 払い落しながら倒れていったのを私は見ていたよ ほら倒れているおまえの上にあんなに沢山の仲間が起き上っている」

 一本の竹が身を割って倒れてくれたおかげで、たくさんの仲間を押しつぶそうとしていたものが取っ払われてしまったことを詠ってるんですね。この割れた竹の中にキリストの姿を見てるのは明らかです。キリストは自らを犠牲にするのと引き換えに、私たちの上にのしかかっていた罪と死の運命を打ち消してくださったのです。いったいいつそのようなことが起こったのでしょう。もう今から約二千年前のあの十字架の上でこの救いが完了したんです。つまりもうキリストによる救いは完成しているのです。後はあなたがそれを信じて受け取ることなんですね。

今、キリストを受け入れる幸い

 作家の内海隆一郎さんの家では、冷蔵庫が食品でいっぱいになったので奥様が中を整理されたのでした。すると奥の方からアルミホイルで包まれたテニスボール大のものが出てきたのです。それはカチコチに凍った食用菊でした。五年前の秋、岩手に住むお母さんが送ってくれたものです。さっそくレンジで温めて三杯酢で食べると、懐かしいおふくろの味がして思わず彼は涙がにじんできます。と言うのは、お母さんはすでに四年前、亡くなっておられたからです。この食用菊は遠くから今に届いた贈り物だったんですね。キリストの死と復活による救いも、遠くから今この瞬間に届けられている賜物なのです。どうぞあなたもこの救いを受け入れ、永遠の命をいただいてください。心からお勧めしたいと思います。

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