旧約聖書
人の望むものは、人の変わらぬ愛である。
(箴言19:22)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.688 2013年6月2日

「絶妙なるキリストの愛」

 おはようございます。高原剛一郎です!
カット

 先日、電王戦という、将棋の団体戦がありました。現役のプロ棋士と、5種類のコンピューター将棋ソフトが5対5で対戦したんです。その結果は、驚くべきものでした。なんと、一勝三敗一引き分けで、人間がコンピューターに負けたのです。コンピューターの演算能力は、一秒間に最低でも一億手を考えます。しかし、将棋というのは単純な計算だけではなく、思考力や判断力が試されるので、これまでは人間がコンピューターを上回ってきたのです。しかし、今回は、天才棋士たちが次々とコンピューターのソフトに負けていったのです。それにはいくつか理由があります。実はコンピューターには、人間が人間だからこそ持っている弱点がないんですね。人間だからこそ持っている弱点とは、何でしょう。
 第一に、人間は、長時間集中すると肉体的に疲れるんです。ところが、コンピューターは疲れません。さらにコンピューターは、相手が誰であっても怖がりません。また、みくびりません。さらに、間違いません。万一、相手の罠にかかっても、驚きません。震えません。要するに、いっさい後悔しません。睨まれてもひるまず、タバコの煙も苦になりません。前日に睡眠不足で眠れなかった、ということもないんですね。それに対して人間は、恐れや動揺があるんです。それは、1000の内、999が正解でも、たった一手まちがえてしまうと、そのまま敗勢まで持っていかれてしまうという恐怖です。それは、腕を取られた瞬間に終わってしまう格闘技のようなものです。すっごいストレスなんですね。そしてこのストレスは、人に心をむしばみ、怯えさせるんです。
 この、人間であるがゆえに持っている心や感情が、そのまま、人間の弱点になっているんです。しかし、この人の心の思いや感情は、人間の弱点であるとともに、人間の偉大さでもあると思うのです。というのは、コンピューターは、どんなに天才棋士を破っても、うれしいという感情を持てないからです。コンピューターはどんなに強くても、自分が強いということがわからないのです。ところが人間は、自分が弱いことや、小さいことや、負けたことを自覚し、悲しんだり、恥じたり、悔しがったりすることができるんです。コンピューターは、純粋な演算能力に限って言えば、これからますます発達していくことでしょう。しかし、どんなにコンピューターが進歩しても、このような人格を持つことはできないのです。この人格という、精神、魂、人柄は、いったいどうやって生まれてきたんでしょう。聖書はこう言うんです。

「神がご自身のかたちに似せて、人をお造りになった。」

 そして聖書はこの人間に対して、次のように語っているんです。

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」

 人は皆、渇望しているものがあるっていうんですね。人が、飢え乾いて探し求めているものって、何でしょう。

愛を求める人間

 第一に、愛なんです。どんな人でも、愛されたいんですね。愛を受けると人は、生きる勇気が湧いてくるように、造られてあるのです。
 数年前、私は、自分の誕生日に、母宛のプレゼントを贈りました。自分が今日この世に生きているのは、母が産んでくれたおかげです。それで私は、自分の誕生日にこそ、母に感謝したいと思い、鉢植えの花を贈ったんです。誕生日当日のことです。玄関のチャイムが鳴るので出てみると、花のプレゼントが届いてるんですね。いったい誰からだろう、と差出人を見てみると、なんと、私ではありませんか。母宛に送ったはずが、つい、いつも書きなれている自分の住所を書いてしまっていたんですね。私は大変がっかりしました。自分で自分にプレゼントしていたからです。ところが、しばらくすると、またしても花の宅急便が届いたんです。こんどは、地方にいる心優しい友達からの花かごでした。これには慰められました。ドジを踏んだ直後でしたので、なおさらです。カードには一言「そのままの高原さんに、慰められています」と書き添えられていたのです。心がジーンと温かくなりましたね。同じ花でも、自分で自分に贈るより、誰かから贈られるほうが、はるかに嬉しいですね。そこに、愛を見出すからです。人は誰もが、愛されたいと願っているのです。

形に現れた愛を求める人間

 第二に、その愛は、人の愛、人からの愛であってほしいと願っているというのです。同じ人格を持つ者からの、しかも、手で触れたり、耳で聞いたり、目で見えたりする愛がほしいというのです。見えない神様の愛では、なんだか物足らないということなのでしょうか。抽象的な愛ではなく、具体的で、現実的で、目撃できる形をとった愛がほしいのです。言葉だけではなく、行動に表わされた愛がほしい、それを、人の心は願っているのだと、聖書は喝破しているのです。

不変の愛を求めている

 第三に、その愛は、ありきたりの愛ではだめなんです。変わらない愛がほしいというのです。永遠に不変、不滅で、絶対的な、揺るがない愛です。そしてそんな愛は、人間には、ないんです。神にしかない愛を、人間の中で、探し続けているのです。
 向田邦子さんの短編に、「手袋を探す」というエッセイがあります。昭和の冬の物語です。彼女は寒い東京で、かじかむ手を温めてくれる手袋を探すのですが、どうにも、気に入ったのが見つからないのです。温まるんだったらなんでもいいや、と妥協するのがどうにもいやで、彼女は、22歳の一冬を、手袋なしで過ごすんです。気に入らないものを我慢して身に着けるくらいなら、はめないほうが気持ちがいい、とつっぱるんですね。
 ある晩、残業で遅くなったとき、上司から中華そばをごちそうになりました。そのとき、上司が言うんです。「君のやってることは、ひょっとしたら、手袋だけの問題ではないかもしれないね」と。つまり、自分が納得するものと出会うまでは、決して満足せずに求め続けるというのは、君の人生の構えそのものになっている。そんなことでは、女の幸せは見つかるだろうか、と、諭されたというのです。
 彼女はその晩、電車に乗らずに、十数キロもの道のりを、歩いて家まで帰るのです。胸にグサッと上司の言葉が突き刺さったからですね。無いものねだりの高望みばかりする自分の生活のため、私はいつも、不平があり、不満があり、何かを探し続けていた。どこかで手を打ったほうが楽に違いない……でも、と彼女は思い直すんです。ここで妥協して、適当な手袋で我慢したところで、結局は気に入らなければ、はめないのに違いない。また、気に入ったふりをしてみたところで、それは、自分を偽るお芝居に過ぎない。だから、私は、本当に自分の心を満たす本物を探し続ける、というこの生き方を、とことん貫いてみようと、心に決めるんですね。そしてその結果、テレビ作家として成功を収めるのですが、まだ、心を完全に満たすものは見つかっていない、というところで終わる話です。

人間が求める愛が聖書に

 いったい、人の心を完全に満たすものって、あるんでしょうか。あるんです。それは、神として完全な永遠の愛を持ちながら、同時に、人として目に見える姿をとってこの世に来られ、十字架にかかり、あなたのために、自発的に命を投げ出した、キリストの中にあるのです。この方は死後三日目によみがえり、そして、死についての解決をもたらした、あなたのための救い主なのです。人の心が求めてやまない一切は、思いがけなくも、イエス・キリストの中に備わっているのです。どうぞあなたも、このキリストを受け入れ、失われた自分のかけらを見出してください。心から、お勧めしたいと思います。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム