「ご覧になる神の思い」
ある男の人が街角で座り「私は目が見えません。どうかお恵みを。」と書いた板を持って通りがかりの人にお金を求めていました。そこにある女性が通りかかり、板にあることばを書き加えました。そうするとお金をくれる人が劇的に増えたというのです。なんて書いたと思いますか?それは「とてもいい天気ですね。でも私はそれを見ることができないのです。」というものでした。これはことばの力を訴えるために取り上げた出来事ですが、人はことばによって相手の気持ちを悟ったり、自分の気持ちを大きく揺さぶられたりするものですね。
聖書もことばの力や大切さを語っています。次のようにあります。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
聖書が語る創造主は「ことばなる方」だというのです。ことばが力を持つのはことばが神から与えられたものだからです。神と共に生きる者として造られた人間だけに与えられたものがことばなのです。そしてこのことばなる方が、イエスという人の姿をとってこの地上に来られ神の心を、ことばと行いによって解き明かしてくださったのです。今日は三つのポイントで、創造者なる神さまについて考えていきましょう。
天からご覧になられる方
第一に神はすべてをご覧になられる方、ということです。
イギリス、ニューカッスル大学の心理学者たちが、ある実験をしました。二種類の違うポスターをレストランに掲示して、お客さんがどんな反応をするかを調査したのです。どちらのポスターにも、ゴミは利用者自身がゴミ箱に捨てるように呼びかけていることばが書かれています。でも絵が違うのです。一方には、花、もう一方にはこちらを見つめる二つの目が描かれていました。ポスターに目を留めて、食事の後片付けをしたお客の数は、こちらを見つめる瞳を見た時の方が倍になりました。瞳に見つめられた時は前日に掲示された花のポスターと比べ、二倍のお客さんが指示に従ったのです。人は誰かに見られてると意識した時、行動に変化が生じるのです。絵で描かれた目でもそうであれば、本当の人間の目ではどうでしょう。人は他人に見られている時、無意識のうちにも行動は変わる、ということも実験で確かめられています。
では、天地万物を造られた神がご覧になっておられるとなればどうでしょう。目には見えないけれども、私たちのすべてをご覧になっておられる神さまを知ることで行動が大きく変わってくるのです。人生に大転換をもたらすのは、自分が大きく変わることではなく、私を大きく変えることのできる創造主なる神に出会うことなのです。
心の中もご覧になる神
第二に、神はすべての罪を裁かれる方、ということです。
神がすべてをご覧になってると聞き、それを受け入れるならば私たちは動揺してしまいます。私たちは完全ではないからです。見られていたらまずい、ばれたらヤバイと思うことが一つや二つ、いやいくつもあるのではないでしょうか。私はたくさんありました。不完全で罪を持った人間が死後、神の前に出た時、抱く恥ずかしさは、人に見られて恥ずかしいと思う何十倍、何百倍も大きいものです。その上、神は私たちの外見だけではなく、心の中までご覧になっておられると言います。もうそうなったらお手上げです。イエスは心の中で相手に死んでしまったらいいのに、と思ったことは、神の前では殺人と同じようなものとして見らると言われたのです。多くの人はイエスが愛に満ちたやさしい人だ、と思っています。たしかにそうですが、それは悪いことをうやむやにするとか、罪をいい加減にごまかすという意味ではありません。神の聖さや正義に基づく愛なのです。イエスは罪がもたらす裁きや刑罰についても明確に語られました。ここで終わりならば聖書のメッセージは残酷な死の宣言で終わってしまいます。神の前に不完全な人間に、神の裁きだけを宣告し、恐れながらそれを待つだけしかないという悪い知らせです。しかし、福音とは良い知らせ、という意味です。
心から人間を愛される神
第三に、神はすべての罪を覆い、赦しをもたらす方である、ということです。
神さまの目は監視するだけの目ではありません。もしそうなら神を知ることは苦痛以外、不自由以外のなにものでもないですね。そうではなく悲しんでおられる目です。神は人間を永遠の裁き、地獄へと追いやる罪に対して怒っておられますが、人間そのものに対しては慈しみを抱いておられるのです。神さまはあなたの罪を憎まれますが、あなたを愛しておられます。それは神があなたの魂を造られた方だからです。神は人間を愛する故に、人間の罪の裁きを自分で引き受け、罪の刑罰を終わらせ、私たちに赦しをもたらそうとされました。莫大な借金をして、自分に必要なものでさえ賄えない者が、たとえ愛する者のためであっても借金を肩代わりすることはできません。どんな人も他人の罪の身代わりになれるほど立派ではなく、能力を持っていないのです。そこで神はイエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。この方は罪とはまったく無縁の神のひとり子でしたが、私たちの罪のために十字架にかかって下さいました。
神の愛は十字架と復活で表された
七十年ほど前の太平洋戦争末期のことです。ある日本軍の部隊が南方の島に駐留していました。ところが戦況は思わしくなく、アメリカの総攻撃を前に島から出ることになりました。将校や兵士はみな飛行機に乗れたのですが、看護婦の分まで席がなかったのです。兵士たちは看護婦を置いていこうとしたのですが、一人の兵士がこう叫んだのです。「自分は乗らなくてもいいから、ぜひ看護婦を乗せて行ってくれ。」結局、その兵士が一人残り、代わりに看護婦を乗せることにしたのです。残った兵士の消息はいまだに不明です。彼は、クリスチャンだったのです。
神はこの兵士がした、究極の模範のようなことをして下さいました。天国へ向かう飛行機に私たちを乗せるために、イエスを代わりに地上に残して下さったのです。地上に置いただけでなく、人間の罪の代わりに十字架にかけて下さったのです。身代わりになった兵士は神から見て何が正しいことかを知っていました。もう一つ彼の知っていたことがあります。それはイエスの十字架は死で終わらなかった、ということです。罪の解決を成し遂げたイエスは、死後三日経ってからよみがえりました。神がよみがえらされたのです。これは罪赦された、罪覆われた人間が、神から新しい命を得て、よみがえらされることを人間に示して下さったのです。
みなさんもぜひ、神が人となられたイエスさまを信頼して、罪の赦しを受けて下さることを心からお勧め致します。