新約聖書
また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。 (黙示1:5-6)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.686 2013年5月19日

「キリストにはかえられません」

 おはようございます。高原剛一郎です!
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 私はよく飛行機を利用して旅行に出掛けます。飛行機はとても安全な乗り物だと信じているからです。それはデータに基づく私の確信なんですね。実は、昨年一年間、全世界で起こった飛行機事故の死者は909人です。ところが自動車の死亡事故は日本だけでも5,500人にも上るんですね。墜落事故で亡くなった909人を一年間の飛行回数で割ると0.0009%です。これは8,200年間、毎日飛行機に乗り続けても一度事故に遭うか遭わないかという確率なんです。どうしてそんなに事故率を低くすることが出来るんでしょう。航空業界では、人間は必ずミスを犯すという前提で安全マニュアルが作られているからです。人間のすることに完全はない。人間は必ず間違いを犯すという現実を見据えて、間違いが起きにくくなるために、二重三重の手を打ってあるんですね。つまり人間を不完全なものとみることで、人間の安全に貢献しているのです。

聖書の人間観

 聖書は人間を完全とは見ません。一貫して聖書が主張してるのは、人は神から離れた罪人であるということです。それは人間を軽蔑する主張ではなく、人間の現実を見据える主張なのです。そして、この罪という致命的欠陥をはらむ人間を、死後の裁きから救い出すために神がしてくださった事実を告げる救いのニュース、これが聖書の福音なんです。この聖書の一番最後の書物「ヨハネの黙示録」に次のように書いてあります。

「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」

罪人である人間を愛されたキリスト

 ここにキリストが私たちのためにしてくださったことが三つ書いてあります。
 第一に、キリストはまだ罪人であった私たちを愛してくださったと言うんです。ある心理学者がこんなことを書いていました。実は、私たちが子どものころから愛だと思って経験して来たことは、愛ではなく報酬だったのではないかと言うのです。と言うのは、私たちはどんな時に認めてもらえただろう。お行儀よくしていた時、いい成績を取った時、おばあちゃんに親切にした時、帰宅したら手洗いうがいをきちんとした時、そういう時には「いい子だ、素晴らしい、さすがだね。」と愛の言葉を受けてきたのです。でもいい子にしないと愛してもらえない愛は、そもそも愛の名にふさわしいとは言えないのではないだろうかと。それは良い人であることと引き換えに手に入れる報酬ではないかと言うのです。まあ複雑な生い立ちの学者の言葉ですが、当たらずとも遠からぬ事実の一面をついているように思いました。しかし、キリストは私たちを本当に愛してくださったんです。私たちがまだ「神などいらない」とうそぶき、神から離れ、神と無関係の人生を生きていた時、キリストはあなたを愛し、人となってこの世に介入してこられました。そこには駆け引きも、損得も一切ありません。ただひたすらにあなたを愛してこの世に来てくださったのです。キリストはまだ罪人であった私たちを愛して下さったんですね。

血の印が救いの道

 第二に、ご自分の血を十字架の上で流すことによって、私たちを罪の刑罰から解き放ってくださいました。
 アフリカの部族抗争であったことです。長年その国を支配していた少数派のA部族は、大統領の自己主張を境に多数派のB部族の報復を受けることになりました。B部族の暴徒たちは、A部族の村に押しかけ、男も女も大人も子供も皆殺しにしていったのです。A部族はほうぼうの家の中に身を隠しましたが、B部族は一軒一軒家を捜索し、見つけ次第一人残らず引きずり出して皆殺しにしていったのです。そして全滅させた後で殺した人の血をその家の入口に塗って行ったのです。それは、もうこの家の始末は完了したという印です。後から来た仲間が無駄な捜索をしなくてもよいようにしたのです。
 そんな中、ある村でA部族の青年が急いで自分の家へ帰って行ったのです。そこには自分の家族や親族が集まって隠れていました。彼はどうしたでしょう。「さあ山奥へ逃げよう」と誘ったのでしょうか。いいえ。自分の腕をナイフで切ったんですね。そして大量に流れる自分の血を入り口に塗りつけたのです。彼らはその家の中で息をひそめて隠れていました。やがてB部族の集団がやってきました。しかし、この家は通り過ぎてったのです。なぜなら、入り口のドアには始末完了の血の印が塗られていたからです。

十字架の意味

 これがキリストが私たちのためにしてくださったことです。イエス・キリストは十字架の上で血を流して下さいました。キリストを信頼する者は、このキリストの血が塗られた者として神が認めてくださると聖書は言うんです。キリストの血をその身に帯びているものは、もはや罪の裁きにあうことは絶対にありません。なぜなら、罪の裁きはキリストが十字架の上で身代りに引き受けてくださったからです。

私たちは造り変えられる

 第三に、私たちを神の住まい、神の栄光を現す器へと造り変えてくださるというのです。と言うのは、キリストはキリストを信じる者たちを王国にするとここで語っているからです。王国とは、王の領地であり、王の住まいであり、また王の権威が及ぶ範囲のところです。キリストはキリストを信じる者の心の内側に宿り、その人をキリストの王国に変えていかれるというのです。
 先月、アメリカを代表するゴスペルシンガー、ビバリー・シェーという方が亡くなられました。104歳です。彼はグラミー賞の候補に10回も選ばれ、1965年には見事グラミー賞を受賞しています。折り紙つきのその歌唱力で、彼は世界的伝道者ビリー・グラハムという人物とともに、全世界を巡回し、賛美を通して聴く者たちに大いにチャレンジを与えてきたのでした。彼の作曲した讃美歌の中に、「キリストにはかえられません」という作品があります。牧師の家に生まれた彼は、幼いころから教会に通っていました。ところが十代になった頃、世の中のいろんな誘惑にのめり込み、神から離れてしまうんです。彼のお母さんはそのことをひどく悲しみ、いつも息子のために祈りをささげていました。そのお母さんが特に愛した一つの詩が「キリストにはかえられません」というタイトルの詩だったのです。その詩はいつも家のピアノの上に置いてあったそうです。ビバリー・シェーが23歳になった時、彼は人生の岐路にさしかかっていました。そしてキリストなしの人生を数年間味わってみた結果、実は何もない虚無だということが分かり、彼はもう一度キリストの元に立ち返ってきたのです。家に戻ってその詩を見た時、彼の心は鼓舞されます。その詩にメロディーをつけて作ったのが「キリストにはかえられません」という曲なのです。93歳のとき彼はこう言っています。
 「長く生きるということは、持っているものを次から次へと失っていくことです。でも私にとって年を重ねることは恐怖ではありません。私は何かを失うにしたがって、ますますイエス・キリストの存在が自分の中に広がって行くのを感じるからです。天国の希望が益々豊かになっていくからです。」

 どうぞあなたもこのイエス・キリストを救い主として信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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