新約聖書
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
(ヨハネ1:17)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.685 2013年5月12日

「恵みとまことの神イエス」

 おはようございます。高原剛一郎です!
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 私の大好きなピアニストにグレン・グールドという人がいます。20世紀最大の天才ピアニストだと思います。クラシックをあまり聴かない人でも、彼の演奏を聴くとつい引き込まれてしまいます。大変な変人で、長身なのにお父さんが作った高さ35cmの折りたたみ椅子でないと演奏しないのです。この椅子がぼろぼろで演奏中キーキーなるんですが、彼はその椅子を決して手放さないんですね。ところで、彼はほとんどライブ演奏しません。初めはしてたんですが、そのうち断るようになったんです。それはお客さんの中には、ピアニストが演奏を失敗するのを期待している人がいるに違いない。くしゃみもあるだろう。ひそひそ話もあるかもしれない。集中できないので、人前ではもうひかない。そう言って、スタジオ録音専門のピアニストになってしまうんですね。実に残念なことです。というのはライブに勝るものはないからですね。

迫りくるプレッシャーや恐れ

 しかし、彼に限らず、人は有名になればなるほど、また、高い評価を受ければ受けるほど、失敗を恐れるようになることが多いように思うのです。これはピアニストに限りません。普通のサラリーマンの方でも、栄転で高い地位に着けばつくほど、自分の精神が蝕まれて倒れてしまう人が案外多いのではありませんか。人はより高く、より強く、より大きくなろうとしますが、いったん高く、強く、大きくなってしまうと以前には感じなかったプレッシャーや、恐れに慄いてしまうのではないでしょうか。その原因はいったい何処にあるんでしょう。自分の人生は自分の力で頑張って生きてきたという自負ではないかなと思うんですね。自分の力で獲得した高い自負は自分の力で守り続けていかなければなりません。ですから、到達した地位や評判がすごいものであればあるほど、それを維持していくエネルギーもまた凄まじいものにならざるを得ないのです。

聖書が語る「罪」とは

 このように自分の腕のみを頼みとして生きる生き方を聖書は罪といいます。なぜなら、そこには神が追放されているからです。罪とは神を自分の人生から追い出し、神などいないかのような人生観で生きる事なのです。これに対して、恵みによって生かされるという人生があります。これこそは神が私たちに与えたい人生なんですね。聖書はこう言っています。

 「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 さて、恵みとはなんでしょう。受けるに値しないものに注がれる一方的な神の祝福のことです。愛されるに値しない者への一方的な愛のことを恵みというんですね。そして、私たちを作られた神様は聖い神、正義の神であるとともに恵みの神なのです。明石家さんまさんの娘さんはいまるという名前だそうですね。これは、生きてるだけで丸儲けという言葉を略したものだそうです。生きてるだけで十分丸儲けなのだという訳ですね。日頃そんな感覚で生きてる人はまぁ、あんまりいないんじゃないかなと思います。しかし、例外的にそういう感覚の持ち主があるんですね。

恵みを味わう

 ロシアの文豪ドストエフスキーがそうでした。彼は28歳の時に当時の皇帝支配に対し、反対しました。そして、知識人たちの秘密組織に入って、反政府運動を画策していったのです。ところが仲間の中にスパイがいたんですね。ドストエフスキーら仲間21人は全員逮捕され、投獄された後、死刑判決が決まります。彼は仲間と共に処刑場に連れ出されます。見ると、銃を持った狙撃兵たちがずらり並んでいるのです。ドストエフスキーたちは、3本の杭の前に3列で並ばされ、目隠しを受けました。一斉に銃が自分たちに向くのが気配でわかります。ああ、もうおしまいだと観念したその時に、早馬が到着するんです。待て、皇帝陛下からの命令だ。なんと、土壇場で、死刑がシベリア強制労働に減刑されて、命拾いするのです。実はこれは、初めから、皇帝側が仕組んだパフォーマンスでした。しかし、そんなことは知らないドストエフスキーは、心理的にここで一度死を経験したのです。そしてこれを境に彼の人生観は大きく変わるんですね。本当は死んでいたにもかかわらず、大きな力に生かされて生きるという感覚が身に着いたのです。
 私たちも、今当たり前と思って持っているものをいったん全部なくした後で、もう一度元に戻されたら、どう感じるでしょう。当たり前に戻ったと思うでしょうか。いや、当たり前の状態は当たり前ではなかった。恵みだったと気付くんではないでしょうか。そして当たり前の今に感激するようになるのではないでしょうか。ドストエフスキーはシベリアの刑務所の中で、新約聖書をボロボロになるまで読みふけり、恵みに生かされるという見方が、開かれていったのです。今の地位もこの能力も動いてる心臓もすべて私自身のおかげではなく全能の神の恵みであると分かると生きる事のしんどさから、随分逃れていくことができるんじゃないでしょうか。なぜなら、自分で保っているのではないからです。

イエスが備えた根拠ある赦し

 第二に、キリストが下さる恵みとは根拠ある本物の赦しのことです。志賀直哉の小説に暗夜行路と言う長編小説があります。主人公の時任謙作は直子という女性と結婚するのですが、彼女は主人公の従兄と間違いを犯してしまうのです。それを知った謙作は暗闇の中を手探りで歩く人生に入っていくんですね。その中で直子が健作に語りかける場面があるのです。
「あなたが私の悪かったことを赦しているとおっしゃりながら、実は少しも赦していらっしゃらないのが辛いの。」
 口では赦すと言いますが、表情では、また心の中ではどうしても赦すことができない。そういう物が直子に伝わっていくんですね。なので、その赦しの言葉には力がないのです。赦した赦したといわれても、そうなんだと言うことができないんですね。赦すというのは、この場面では、たんなる記号になってるんです。しかし、キリストによる赦しは本物の赦しなのです。なぜなら、それは気持ちの上での赦しではなく、赦しに必要な償いの代価にのっとった赦しであるからです。神はあなたの罪という借金をキリストの命という莫大な資産で帳消しにしてくださったのです。根拠のない赦しには力がありません。しかしキリストによる赦しには、キリストの命という根拠のある赦しなのです。

ほんとうにある天国へ

 第三にキリストは信じる全ての人に恵みと共にまことを与えてくださる方です。まこととは、実体です。自分の力だけでは、到底辿り着くことのできない祝福の実体。天国という次の世界の実体。神さまの子供として歩むという人生の実体を神はキリストにおいてタダで与えてくださるというのです。
 どうぞあなたもこのキリストイエスをご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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