新約聖書
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.684 2013年5月5日

「根本原因の根本解決」

 おはようございます。高原剛一郎です!
カット

 カナダのヴィクトリアという美しい町に、クリスチャンの作家がおられます。彼のエッセーに、次のような話があります。あるとき友人の娘の結婚式で、聖書のメッセージを語ったんだそうです。披露宴パーティーまでの間、バルコニーに出て夕焼け雲を見ていました。するとそこに一人の青年がやってきて、こう言うんです。「先生、あなたは先ほど仰ったことを、全部、本気で信じているのですか。つまり、キリストを信じよとか、神の言葉には力があるのでそこに目を留めよとか、天国の希望とか、そういったことを本心から本気で信じているのですか。」作家は、「もちろん」と答えました。すると、「僕は大学で哲学を専攻しているんですけど、あなたの言ったような迷信的なことは、僕には必要ないな。だいたい、キリストを信じるより自分を信じることの方が、実際的ではありませんか。神の言葉に励まされるより、自分で自分を励まして生きていける人間になることこそ、人として成長なのではありませんか。だいたい、見ることも触ることもできない天国なんかに希望を置くなんて、絵に描いた餅ですよ。そんなあの世に希望を置くのではなく、目の前の現実の生活の中に希望を見出していくということこそ、人間に必要なことだと思いますけど。」

自分を信頼する方が確かか?

 作家は静かにこう言ったのです。「そうだねえ、同意するよ。でも君の話を聞きながら、僕は何人かの友人のことを思い出していたんだ。一人の友人は、30代で証券会社の重役になり、美しい妻とかわいい子供たちに恵まれ、大きな家と最新のスポーツカーを持っているんだ。でも奥さんが末期のガンに侵されているということがわかったんだ。子供たちは、ママいかないで、っていつも言うけど、この一家はクリスチャンでね、天国への望みがあるんだ。だから母親は、『ママは消えてしまうんじゃないのよ、天国というもっと素敵なところで、君たちを見守っているからね』と、励ますことができるんだ。ところで君は、天国なんて見えないものに希望をおくより、目の前の現状の中にこそ希望を見出すのが人間らしさだって言うけど、君のその哲学は、この家族にとって力になるかな」青年はブスっとした表情で黙って立っていたそうです。
 作家は続けました。「それから、もう一人の友人のことも思い出した。彼はまるで、女性のように美しい男だったんだが、ゲイになり、同性愛の売春で稼ぐようになったんだ。でも、40歳になってエイズを発症し、今では誰も彼に近寄らなくなったんだ。彼の願いは、バンクーバーの母親のところに行くことなんだけど、そのバス代さえないので、僕はチケットをプレゼントしてあげたんだ。ところで君は先ほど、キリストを信じるのではなく自分自身を信じ、神の言葉に励まされるのではなく自分で自分を励ます人間になるべきだ、と言ったね。それができれば、それもいいかもしれない。でも、彼にとって、君の哲学はどんな力になるだろう。君の提案は、どんな希望になるんだろうか」

神に信頼するのは単なる弱さか?

 すると青年は答えました。「そんな難しい質問は、今すぐには答えることはできません。でも、考え続けたら、きっと答えが出ると思います。神やキリストによらなくても、人間自身を支えによる救いが、きっとあると思います。」「うん、そうか。じゃあその答えが見つかったら、私に連絡してくれないか」「はい、わかりました。」そういって青年と別れて、それから何年もたつけれど、未だに連絡がないそうです。
 何者か偉大な存在に信頼したり、頼ったり、励まされたりするということは、弱い人間のすることなんでしょうか。わたしには、とてもそう思われないのです。むしろそれは人間にとって一番自然な、本来の姿ではないのかな、と思うのです。人間は自分の造り主に信頼しながら生きるときに、最も輝き、最も揺るがず、本領発揮するように、もともとそのように造られているんですね。ところが、この自分の作者から独立することが、立派なことであるかのように吹聴され、神なしでも立派に生きれると考えるようになったのです。この、神様に背中を向け、自分の造り主との関係を切って生きることを、聖書は罪と語るのです。聖書はこう言っています。

 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 神を無視して認めないことは、罪です。それは、親を親として認めないことが、美しくない態度であるのと同じです。そしてこの罪には、必ず、結果が伴うのです。それは、いのちの源から離れた結果、いのちがどこにも見当たらない世界に堕ちてしまうという結果なんです。この場所のことを聖書は、地獄と言っています。人間には一度、死ぬことだけではなく、死後に、罪の結果の刈り取りが定まっているのです。この罪の刈り取り場所が、永遠の地獄なのです。しかし神は、私たちのために、赦しといのちを用意してくださったのです。それが、主、イエス・キリストにある救いなのです。

イエスにある救いとは?

 昔ニューヨークに、ラガーディアという名物市長がいました。3期連続にわたってニューヨーク市政をリードした実力者です。大変な正義感の持ち主で、彼の時代にマフィア撲滅運動が広がっていきます。どんなにマフィアに脅されても、けして怯むことなく、彼らの博打場を次々とぶっ潰し、ニューヨークを安全な町に変えていった人です。
 その彼がまだ裁判官であったころの話です。ある男が、50セントのパンを万引きして捕まってしまうんです。それは彼自身の腹を満たすためではなく、飢えている家族のために、やむなくしたことでありました。この事件の裁判官が、ラガーディアであったのです。彼はこの男に、10ドルの罰金を申し渡したのです。いくら家族のためにやったこととはいえ、やはり悪は悪、盗みは盗み、罪は罪なのです。罪は必ず罰を受けなければなりません。家族のためだったら、パンは盗んでもOK、罪は目こぼししてもらえるということであるならば、みんな、家族のためにという理由でメチャクチャなことをやりだし、ニューヨークの治安は破滅してしまうことでしょう。しかし、50セントが払えない男に、10ドルが払えるわけがないのです。男は顔を真っ青にして震えあがりました。しかし、ラガーディアは躊躇なく、「あなたは10ドルを払わなければならない!」と申し渡したのです。しかし、同時に懐から財布を取り出し、自分のポケットマネーから10ドルを払ってやったのです。そして、陪審員の一人ひとりに温情ある判決を訴え、執り成したといわれています。彼は裁判官として罪を罰しました。しかし、同時に、罪人である男を、罰から救ってやったのです。ラガーディアが代わりに罰金を払うことによってです。

イエスの身代わりによって救われる

 それと同じように、神はあなたに代わって、あなたの罪の償いを、キリストのいのちで支払って下さったのです。それによって、罪は罰を受け、同時に罪人であるあなたは罰から免れるという方法を切り開いてくださったのです。キリストはあなたのために、この赦しに基づく執り成しを日々、なしておられるかたです。どうぞあなたも、このキリストをご自分の主として信じ、受け入れ、永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム