新約聖書
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
(2コリ5:20)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.680 2013年4月7日

「福音を拒む理由は?」

 おはようございます。高原剛一郎です!
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 4月は、新入生、新入社員、新人デビューのシーズンですね。実はこの番組がスタートしたのも、今から13年前の4月、第一日曜でした。どうぞこれからも、聖書と福音をよろしくお願いします。ところで、「福音」とはどういう意味でしょう。英語ではgood newsと書きます。つまり、良い知らせ、喜ばしいニュースのことなのです。聞いてがっかりするような話ではありません。受け取った人の人生を一新し、罪の赦しと永遠のいのちを与えるニュースなのです。このニュースをズバリ語っている聖書の箇所を、まずお読みいたしましょう。

 「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」

創造主の驚くべき招き

 どうしてこれが良いニュースなのでしょう。一般社会では、重大犯罪の裁判になったとき、加害者は少しでも罰を軽くしてもらおうと、赦しを懇願します。そして被害者は少しでも罰を重くしてもらおうとして踏ん張ることが多いと思うのです。ところが聖書のこの箇所によると、何一つ悪くない正義の神が、神に反逆している人間に懇願しているって言うんです。人が神の前に犯してきたすべての罪は赦された、キリストが人に代わって償いを果たしてくださったので、もはや何一つ罪に問われることはなくなった、だから、さあ、神によって完成したこの和解を受け入れてください、と懇願するように訴えているというのです。ところが日本では、このすばらしい神による罪の赦しを受け入れる方が少ないんです。なぜこの神の懇願をはねつけ、福音を信じる方が少ないのでしょう。3つ理由があると思います。

自分自身を取り戻す方法

 第一に、キリストを救い主として信じることは、宗教団体に加盟することだと思っているからです。何か特定の宗教に縛り付けられることになるのではないかと、警戒するんですね。しかし、聖書の語る神とは、どんな方でしょう。あなたの造り主です。人が作った神々ではなく、人を造った唯一の神です。いわば、あなたの魂の親なのです。あなたを愛し、あなたを造り、あなたに目的と使命を持ってこの世界に送り出し、きょう、今日にいたるまであなたを生かし続けてこられたあなたの作者、あなたの命の恩人なんです。世話になった人に「ありがとう」を言うってことは、宗教とは関係ありませんね。自分に尽くして育ててくれた親を尊敬し、その親に孝行をお返しすることは、宗教活動とは言わないと思います。それは、人として当然あるべき姿ではないでしょうか。実は、キリストによって自分の造り主のもとに立ち返るというのは、人間として本来あるべき、一番自然な姿に戻ること、回復することなんです。あなたが神に反逆しているときにすらキリストを身代わりにするほどあなたを愛する方が、あなたの人生を縛り付けたり、自由を奪ったりして喜ぶことなど、あるでしょうか。あなたの祝福を心底願っている万物の造り主に帰るということは、自分自身を取り戻すことでもあるんですね。

私たちが気づきにくい自分自身の姿

 第二に、人がこの神の和解を受け入れようとしない理由は、その必要性がわからないからです。自分が、神からの赦しを必要としている罪びとなのだ、ということがわからないからだと思います。
 あるご婦人が、所帯を持っている息子夫婦の家に遊びに行くために、田舎から上京しました。夕食は、自分が大好きな鍋料理だったそうです。なんて気の利くお嫁さんだろう、と喜んでいました。ところが食事が終わると、お嫁さんはソファにズテーっと寝転んで、洋画劇場を見だしたのです。お義母さんも一緒に見ましょうよ、と誘ってくれるのはいいのですが、食器洗いの後片付けはどうなるんでしょう。なんと、息子が一人でやってるんです。夫婦共働きで、その日はご主人の当番だったようです。しかし、母親としては、穏やかではいられないのです。夫に皿洗いさせて、自分はソファで寝転びながらテレビを見ているとは、なんてだらしない嫁なんだ。田舎に帰って、悪口をいっぱい言ったそうです。そうでもしないと気が済まなかったんですね。ところが、しばらくたって、今度は娘夫婦の家に遊びに、大阪へ出たのです。夕食は自分の好きな鍋料理でした。さすが、娘は私のことをよく知っている、と喜んでいたのです。そして食事が終わったときのことです。なんと、娘婿が台所に立って、山のように積みあがった食器を黙々と洗っているではありませんか。娘を見ると、なんと、ソファに横になりながら邦画劇場を見ているんですね。夫婦共稼ぎで、たまたまこの日は娘婿の当番だったようです。お母さんはそれを見ながら、この娘婿はなんてできた人だろう、と感心しました。そして、田舎に帰って自慢したんです。すると、それを聞いていた人たちが口々に言いました。「ちょっとおかしいと思わない?」2つの家庭とも、夫が皿洗いをしているという点では、まったく同じなのです。ただ、自分の子供がしてもらう皿洗いは美徳となり、自分の子供がする皿洗いは悪徳になるのです。どうしてでしょう。自分が中心になって、事の善悪の基準としているからです。
 自己中心になると、もしかすると、善も悪に見えたり、悪だって善に思えたりするのではないでしょうか。いや、自分が中心になっていると、自分が罪びとであるということすら、見えなくなってしまうのではありませんか。本当のこの世界の中心は、人ではなく、神なのです。この神を押しのけて自分を神の位置に置くことこそが、罪の正体なのです。そしてこのあり方こそが、この世界の混乱の原因なのです。この罪がわからないので、罪の赦しの必要性が、わからないのではないでしょうか。

ピンとこないほどの福音のすごさ

 第三に、人がこの神の懇願を受け付けようとしないのは、福音がすばらしすぎるからだと思います。
 今から150年ほど前、アメリカにムーディーというキリスト伝道者がいました。彼はオハイオ州の刑務所に行ったとき、南北戦争終結で特赦を受けた囚人の話を聞いたというのです。囚人たちには秘密にしながら、半年間観察し、模範囚ベストファイブを選んで釈放することにしたというのです。1100人の囚人を朝礼で集め、所長自らが名前を読み上げたのです。その最初の人は、ルベン・ジョンソンという人でした。「ルベン・ジョンソン、出てきなさい」皆、彼の方を見たのです。しかし本人は、前に出ようとはせず、ポカンとしています。それで、もう一度名前が呼ばれました。「ルベン・ジョンソン。前に出てきなさい!」しかし、彼はそれでも前に行かないのです。なぜなら、20年以上刑務所にいる自分が特赦の対象に選ばれるはずがない、と思っていたからです。きっとこの1000人以上の囚人の中に、同姓同名の、別人のルベン・ジョンソンがいると思って、立ったままになっていたのです。しかし所長は、3度目に、彼を指差して言ったのです。「ルベン。君のことだ。」彼は感激に震えながら、進み出ていったのは言うまでもありません。なぜ彼は、名前を呼ばれているのに、すぐに受け取らなかったのでしょうか。すばらしすぎる伝えであったからです。福音は、あなたの罪をすべて終わらせ、赦し、あなたに永遠の命を与え、あなたの人生を一新する、神からの和解のメッセージなのです。これは、あまりにもすばらしすぎます。しかし、躊躇する必要はないのです。なぜならこの方は、真実の神であり、約束したことを必ず守りぬく神であるからです。
 どうぞ、このキリストの福音を受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。

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