「輝く人となるために」
今から1300年ほど前、中国に李白という詩人がいました。自分のことを、「訳あって人間界に来てしまった仙人だ」と名乗り、「自分の白髪は3,300メートルもある。自分が地面に寝転がったら台地は敷布団で、大空は掛布団だ」というようなまあスケールがでかいと言うか、表現がオーバーと言うか、変幻自在の詩を書いた人ですね。そんな彼の作品の中に、『天 我が材を生ずる必ず用有り』があります。天は私の才能を見込んでこの世に送ってくださったんだ、だからいつか必ず社会の役に立つことになると決まっているという意味です。一見只々おおらかで、只々広々とした心の持ち主で、何の憂いもないように見受けられる。まあそのような作品が多いんですが、実は彼がそのように考えることが出来たのは、自分の中に何か自信があったからではなく、天が私をこの世に送ってくださった、天の意思、天命で私はここに存在するようになったという考えに支えられていたのです。
では天とは一体何なんでしょう。古代中国では二つの意味があったのです。一つは宇宙、あるいは運勢や運命を意味する言葉です。しかし、もう一つの意味は万物の支配者、万物の創造主、天の帝、天帝と言ってこれを天と言ったんですね。前者には人格はありませんが、後者には人格があります。李白がどちらの意味で天を使ったのかは分かりません。しかし、もし後者の意味であるなら聖書のメッセージにとても近いと思います。なぜなら聖書はこの世界をお造りになった真の神様を、天の神と呼んでいるからです。この天の神をさすもう一つの言葉に「主」という言葉があるのです。主とは、主(あるじ)、オーナーのことですね。この全世界の本当のオーナーである方を、聖書は「神」、「主」と呼ぶのです。さてその聖書の中にこんな言葉があります。
「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」
人は神を仰ぎ見ているときに輝くのだと言うのです。逆に神を見失うと輝きを失ってしまうのです。自分の造り主、自分の魂の親、自分の助け主を見失うと、人は試練の時に心が折れてしまうのです。なぜでしょう。
第一に神を見失うことで自分の本質を見失ってしまうからです。
揺るぎない存在者とつながる幸い
フィンランドの作家トーベ・ヤンソンの代表作にムーミン・シリーズというのがあります。コビトカバの姿に似ている北欧の妖精、ムーミン一族の物語です。ある時、近くのおさびし山で主人公のムーミンは黒いシルクハットを見つけるのです。好奇心を抑えきれずについ持ち帰ってしまうのですが、それは飛行機おにの帽子で不思議な魔力を宿すものだったのです。自宅で仲間たちとかくれんぼをした時、ムーミンはあろうことか、この帽子の中に隠れるのです。やがて帽子から出てきた時、皆が悲鳴を上げるのです。何とムーミンとはとても似ても似つかぬ怪物の姿に変わりはてていたからです。それまで楽しく遊んでいた友達はみな目も合わせようとはしません。「僕はムーミンなんだ!」と泣いて訴えるのですが、友達は誰もその証言を信じてくれないのです。
そこへムーミンママが帰って来るのです。醜い姿に変わったムーミンは必至でムーミンママに取りすがります。「ママ、あなただったら僕がムーミンだと分かるはずです。」ムーミンママはじっくりとその化け物を見つめ、そして一言こう言うんですね。「確かにお前はムーミンだわ。」その瞬間魔法が解けてムーミンが元の姿に戻るのです。外見が変わってしまうと誰もかれもがムーミンが分からなくなります、しかしムーミンを生み、育て、長い間世話してきたムーミンママには分かるんですね。そしてこの自分を分かってくれる揺るぎない存在者とつながることで彼は自分自身の元の姿を取り戻すことが出来るのです。
神の作品である「あなた」
私たちも暗がりに身を隠し、闇に身を置いているうちに、理想の自分を見失ってしまい、何が本来の自分であったのか分からなくなってしまうのではないでしょうか。しかし、私たちがどんなにみじめになっても、どんなにひどい過去があっても、どんなに不本意なものに成り果てたとしても、あなたをお造りになった神にはあなたの本質が見えているのです。あなたの本質とはなんでしょう。神の形に似せて作られているということです。あなたには魂があります、自由意思があります、永遠を思う思いがあります、人格があるのです。そしてこの人格こそは神の似姿なのです。残念なことに神から離れて随分歪んでしまってはいるのですが、それでもあなたが神の作品であることには変わりはないのです。
帰るべきところを見失った人間
第二に、神を見失うと人は自分の魂の故郷を見失ってしまうのです。帰るべきところ、所属すべき場所が分からなくなるのです。
今NHKの大河ドラマで「八重の桜」という番組が放送されています。これは後に京都で新島襄の婦人となり、同志社大学の設立に奮闘する山本八重の生涯をドラマ化したものです。ところで彼女は会津出身の人でした。そして戊辰戦争で若松城に立てこもり、当時誰も持っていなかった新型スペンサー銃で政府軍に応戦した、火の女と言われている人です。あるいは「会津のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた人です。しかし最後は抵抗むなしく、政府軍の圧倒的火力の前に降伏せざる終えなくなりました。降伏した後どうなったでしょう。会津藩はつぶされます。そして城内の藩士は苗代に送られたのです。彼らは故郷を亡くしたのです。そんな八重が京都に出て来た時、彼女は宣教師から英語を学ぶ傍ら聖書のメッセージに触れるようになるのです。そしてそこで魂の故郷について聞くのです。
死に打ち勝つキリスト
人はたとい故郷を失うことがなかったとしても、自分の方から故郷に行くことが出来なくなる時がやってきますね。なぜなら人は必ず死ななければならないからです。死は私たちを愛する人から引き離し、故郷から引き離し、私の魂を私の肉体から引き離してしまいます。この体から離れた私の魂は一体どこに行ってしまうのでしょう。聖書は罪を持ったまま死ねば、その人の魂は永遠の滅びに入るのだとはっきりと宣言しているのです。しかし、神はこの罪を赦すことにしてくださいました。どのようにして赦されるんでしょう。キリストの上にあなたの罪の裁きを背負わせることによって罪を赦すことになさったのです。キリストの中には完全なる罪の赦しがあります。そして天国という本物の故郷が用意されているのです。
どうぞあなたのために十字架に架かり、墓に葬られ、三日目によみがえったこのイエス・キリストを自分の救い主として仰ぎ見てください。心からお勧めしたいと思います。