旧約聖書
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
(エレミヤ29:11)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.670 2013年1月27日

「平安・将来・希望」

おはようございます。尼川匡志です!

 「石の上にも三年」昔からよく聞くことわざです。一つのことを始めたら、簡単に投げ出さないでそこでじっと我慢する必要がある、という意味だと思います。飽き性の私は子供の頃からよくこの言葉を母親から聞かされたものでした。先日ある本を読んでいたら、このことわざには続きがあるというんです。それは「石の上にも三年」その後に「三年も我慢したのは石の方」というのです。おもしろいな、と思いました。もちろんこれは、ことわざとして本当に続きがあるわけではないと思います。誰かがちょっとしたしゃれっ気でこのことわざの続きを考えたものでしょう。でもそれを読んだ時、私はなるほどなあ、と妙に納得してしまったんですね。

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 私たちはいつも自分の視点で物事を見ています。そしてその中でいろいろ考え、判断します。しかし少し視点を変えてみると、今までと違う世界が見えてきたりしますよね。「石の上にも三年」と聞けば、とにかく我慢しなければならないんだ、と思います。するとどうでしょう。気持ちがだんだんしんどくなるんじゃないでしょうか。でも我慢しているのは私よりむしろ石の方で、私よりももっと大きな忍耐で私を見守っていてくれたんだ、だから私は今ここに存在できるんだ、ということが見えてくるんですね。

支えあって生きている人間

 人間はどんな人でも一人で生きていくことはできません。小学校で漢字を習い始めた頃、「人」という字を先生から教わりました。「人」という字を書きながら、「みなさん、人と人とは支えあって生きています。お互いに相手がいなければ、倒れてしまうんです。」確かに人間は互いに支えあって生きています。例えば、農業や漁業や畜産業に携わる人がいなければ、私たちの食卓にのぼる食べ物はほどんどなくなってしまうんじゃないでしょうか。電力会社で働く人がいなければ、電気はきません。ガソリンを売ってくれる人がいなければ、車は走りません。放送局で働く人がいなければ、この放送もみなさんのもとに届けられないんですね。直接見ることはできないけれども、たくさんの人たちの支えによって、私の今日一日は成り立っているんです。人と人とは支えあってこそ初めて生きていくことが可能になるんです。

人間を支えておられる創造主

 では、互いに支えあってる人と人をさらに支えている存在があるということをあなたはご存知でしょうか。もし水がなく太陽がなく、エネルギー資源がなく、空気がなく、この地球がなければ、人間は絶対に存在できません。私たち人間が支えあいながら生きていけるのは、その私たちを支えている存在があってこそ、なのです。そしてその私たちの存在を支えて下さってる方を聖書は、神と呼んでいます。
 「石の上にも三年」確かに石の上で三年我慢することは大変なことですね。しかし、少し視点を変えれば、それは石があるからこそできる我慢なのです。私たちが人生を歩んでいる時、いろいろと大変なことがありますよね。努力も要ります。辛抱も必要でしょう。我慢もしなければなりません。でも、それだって私たちを支えて下さる存在があってこそ、できることではないでしょうか。私たちを支えるために、神がして下さっていることを私たちはあまりにも考えの中に入れていないんではないでしょうか。

創造主が人間に語るメッセージ

 聖書にこんなことばがあります。

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」

 これはイエス・キリストが語ったことばです。イエスが伝えようとされたことは、いのちやからだのことで心配しなくていいよ、ということです。なぜでしょうか?実は私たちは自分のいのちやからだを自分で造ったわけではありませんよね。努力によって手に入れたわけでもありません。私たちはいのちもからだも意志とかかわりなく一方的にもらいました。では誰からもらったのでしょうか。両親でしょうか。ご先祖様でしょうか。ちがいますよね。両親もご先祖様も私たちと同じく、誰かからもらったんです。
 お正月に箱根駅伝が行われました。十区、約220キロをたすきを繋ぎながら走り抜く姿に本当に感動します。この駅伝で、一人一人のランナーはもちろん重要です。しかし、もっと重要なものは繋いでいくたすきなんです。たすきを継承していくんですね。親やご先祖様というのは、この駅伝のランナーのようなものだと思っています。一人一人が大切なランナーです。でもたすきあってこそなんですね。このたすきがいのちであり、からだではないでしょうか。

私たちのいのちの主権者

 ではいのちの始まりを造った方は誰なのか。ここが重要です。それが神である、というんですね。いのちとからだを私たちに与えて下さったのは、神です。ですから自分の思い通りにはなりません。風邪をひきたくなくても、風邪をひきますし、足腰を痛くならないようにと願っても、年齢とともに痛くなるんです。しわやシミが増えてほしくない、と思っても増えますし、起きておこうと思っても、ついつい寝てしまうことだってあります。からだは思い通りになりません。そして、私のいのちはいつ、どこで、何が原因で失われるのか、誰もわからないんですね。どんなに生きたくても、生きることができない、ということがあるんです。自分のいのちであり、自分のからだのはずですのに、自分の思い通りにはなりません。それは、私のいのちもからだも、その主権者が私ではなく、神だからです。だから私には思い通りにならないんです。いのちやからだをどんなに心配しても、どうすることも私たちにはできないんです。神を信頼し、この方にお任せする以外に方法がない。だからイエスは、神に信頼し、自分で心配することをやめなさい、と言われたんです。

神が与えたい平安、将来、希望

 では、私たちに、いのちとからだを与えて下さった神は、私たちのことを心にかけて下さっているのでしょうか。もちろんです。聖書は語ります。

 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」


 私たちの今持っているいのちとからだも、いつか滅びます。そしてその死に直面する時、私たちは平安を失い、将来も希望も失ってしまいます。しかし、神が私たちのために立てている計画は、不安で絶望する人生ではないんです。平安を与え、将来と希望を与えるものだというんです。神はそれをあなたに心から与えたいと願っておられるのです。そのために、すべての準備を整えに来られた方が、イエス・キリストです。準備は二千年前に整いました。あとはあなたがそれを受けとめる決心をして下されば、もらえるんです。あなたの決断次第です。神が用意されている平安と将来と希望を、ぜひ受け取って下さい。お勧めします。

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