「クリスマス~恐れを取り去る神の赦し」
先日、グルメで有名なタレントが言っていました。美味しくて、繁盛しているレストランに共通していることがある。それは、トイレに生け花が生けてあることだというんです。生け花というのは水替えや後始末があって、手間がかかります。にもかかわらず、造花ではなく、生け花を生けている店には、本気でいい店になろうとする気合が見えるっていうんですね。レストランの外観やメインのテーブルにお金をかけている店はたくさんあります。
しかし、トイレという見えないところ隅っこの空間すぐには目立たないところに、真心が行き届いている店はやはり味も美味いし繁盛しているんだというふうに説明していました。そこに店長の本気度があらわれてるっていうんです。ところでこの世界をお造りになった全能の神さまは、本気であなたと世界の将来を祝福しようと決めておられる方です。この全能の神の本気度は世界ではじめのクリスマスの記事を通して知ることができるんです。神さまはキリストの到来をこの世の片隅にいる世の中から忘れられた、目立たない人々にいの一番にお知らせになったんです。聖書にはこう書いてあります。
「さて、この土地に羊飼いたちが野宿で夜番をしながら、羊の群れを見守っていた。御使いは彼らに言った。恐れることはありません。今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
さてここに、キリストの到来によって、人間が恐れなくてもよい二つの理由が記されているように思うのです。
第一になぜ人はキリストを恐れなくてもよいのでしょう。赤ちゃんの姿で誕生したからです。キリストとは人をお造りになった神が人となってきてくださった方です。この方はいかめしい将軍の姿で登場したのではなく、気難しい皇帝の姿でやってきたのでもなく、無力な一人の赤ん坊として、この世に来られた神です。神は、赤ん坊イエスにおいて人を怖がらせずに近づくことがおできになったのです。一切の先入観から解放されている人たちがいます。それは、赤ちゃんです。赤ん坊は自分を抱っこしてくれる人の学歴や年収や不動産や乗ってる車の種類には何の関心もありません。そんなことで人を測ったりしません。ただ自分に好意を持っているかどうかだけが、赤ん坊の関心なのです。人の中身に関心があるんですね。そして、神も私という人間の中身に関心がある方です。神が人に期待してるのは、飾らず、見せかけず、ありのままの素の自分で、神の前に出ることです。赤ん坊の姿となって、人間世界に介入することで神はありのままのあなたに呼びかけておられるのです。
裁くためではなく救うためにこられた神
私たちがキリストを恐れなくてよい第二の理由は、この方は罪の裁き主としてではなく、救い主としてこの世に来てくださったからです。
最近自動車メーカー各社がこぞって開発しているのは事故防止システムですね。車間距離が一定よりも短くなったり、ノーブレーキのまま障害物に突っ込んでいくようなときには、車自身の判断でブレーキがかかるようなシステムが搭載されているんですね。ここには一つの前提があります。人間っていうのはどんなに注意を呼び掛けていても必ず脇見運転をするという前提です。交通教育や、交通安全運動で、ある程度意識を高めることはできるでしょう。しかし、脇見をする人はするし、居眠り運転する人はやっぱりする。だから、人間につきもののこのミスをできるだけ最小限に抑える技術が開発されてるんですね。これは良いことだと思うのです。しかし、そのようなシステムを投入しても、それでも、ミスをしてしまった結果、取り返しのつかない結末に至ったのです。その時に人間に必要になってくるものはなんでしょうか。
取り返しのつかないことをしてしまったとき
先月号のニューズウィークにアメリカの小児科ドクター・ラーブルパリックという人の記事が掲載されていました。タイトルは「私はミスを心から詫びた」です。彼は、偏頭痛を訴える十代の少年アンディーを診察し、頭痛薬を処方しました。しかし、一か月たっても、アンディーの頭痛は全然よくなりません。かえって、ますますひどくなるのです。検査しても異常がありません。カルテを調べるとアンディーは精神科から抗不安薬を処方されていました。これが原因の可能性もあるので、精神科へ行って、帰宅しなさいというふうに言って、送り出したのです。
しかし、翌日、アンディーはある店で倒れ、救急治療室に運ばれ、そこで、脳の中にむくみができていて、その内部圧力で頭痛になっていたということが分かったのです。脳内には、すでに液体がたまり、さらに症状が悪化すれば、命の危険がありました。原因はパリック医師が、検査を見逃していたということにあったのです。そのとき彼は後悔し、恐れ、羞恥心でいっぱいになり、深い深い自己嫌悪に陥っていきます。もともと、腕の良い小児科ドクターです。同僚もスタッフも、皆が彼を励まし、慰め、元気づけようとしてくれました。優しい言葉をかけ、やなことを忘れさせてくるれる、エンターテイメントに誘い、気晴らしになることを次々と提案してくれたのです。しかし、彼の心は一向に晴れなかったのです。
私たちが必要としている赦しの宣告
彼がしたことは、アンディーの母親に電話をすることでした。はじめ彼女の声には恨みの響きがあったそうです。しかし、彼は感情をぐっと堪え自分が検査で、見逃しをしていたことを打ち明け、自分のミスのせいで病気が悪化したことを心から謝罪したのです。そして、あれからすぐに、同じ検査内容をたくさん調べ上げ、彼が担当する患者全員の画像をチェックし、二度とミスを繰り返さない手順を作ったということを伝えたのです。その時、すぐに母親の声から、恨みの響きが消え、正直に告白してくれてありがとうと言って、引き続き、アンディーの主治医となってほしいと言ってくれたのです。奇跡的に彼は回復することができました。
さて、ミスを犯した人に一番大切なのは、慰めの言葉ではありません。励ましの言葉ではありません。気晴らしのエンターテイナーではなかったのです。そうではなく、赦しの宣告なのです。この許しこそが人を失敗の過去から立ちなおらせる力なのです。キリストはあなたに許しを与えるために来られた神からの救い主なのです。是非、あなたのために来られたこの救い主イエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。