旧約聖書
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。…わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。
(イザヤ43:4,7)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.661 2012年11月25日

「聖書が語る人間の尊厳」

おはようございます。三綿直人です!

 私は先日、ある科学者がつれづれに日記を書いている本を読んでいました。その方がこんな事を書いてたんです。「ハーバード大学の教授が、ハゲは知性のあらわれである、と言っている。」また「全米ハゲ頭協会のモットーは、神は平等である。ある人には髪の毛を、ある人には知性を与えられたのだから。」まあ、非常にポジティブ・シンキングで、私自身もずいぶん慰められたんですけど、この科学者の方も、ハゲてたんですね。今の時代、自分をとっても尊厳あるものとしてみよう、価値あるものとしてみよう、そういう考えは多いように思うんです。自分らしさが強調され、自分しかない人生というものが謳われています。でも同時にモンスターのペアレントが増えたり、絶望と孤独の中で自殺する人が後を絶たない時代でもあります。今日は、聖書が語る人間の尊厳について、三つのポイントでみなさんにお話したいと思います。

カット

 まず一つ目。聖書は、あなたは神の作品であるが故に尊い、と語っています。私がいろんなところに行って、食事会にお招きを受けること多いんです。その時にバナナが出ますと、ある一定の年齢以上の方が必ず言うことば、あるんですね。「昔はバナナはむちゃくちゃ高くて、ほんまにたまにしか食べられへんかったんよ。」ていうことなんです。私はバナナのたたき売り、ということばで育った世代で、バナナが高くて食べられへんかったという時代は知らないんです。いつからバナナが安くなったのか、といろんな人がいろんなことを言ってます。プランテーションで大量にできるようになったからだとか、円相場が固定相場から変動相場に変わったからだ、とか言ってますけど、でも私その話聞きながら、いつも思うんです。物の価値っていうのは、需要と供給で決まるんだな、ある時まで、需要がとってもあるのに供給が少なかったら、そのバナナは高かったんですけど、でも供給が増えたら、バナナの値段は安くなったっていうんですね。基本的には、そのようにして物の価値って決まると思います。でも需要と供給のバランスで物の値段がまた価値が決まるものではないものがあります。それは、作品です。作品の価値は何で決まるでしょう?それは、作者の価値で決まるんでないかと思うんです。世界を造った偉大な方が、神です。そしてその神があなたの作者だ、と聖書は語ってるんです。私たち日本人が私たち人間が考え出した神々を神としますが、聖書はあなたの作者である方を神と言ってるのです。

神が造られたものは尊い

 二つ目に、あなたはこの神に愛されているが故に、尊いと聖書は語っています。

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…わたしの名で呼ばれるすべての民」

 こういうふうに書いてあるんです。
 先日、私の家に三人目の子供が生まれました。初めての女の子です。女の子だとわかってから、本当に考えたのは名前なんです。その名前に、夢、希望、志、想い、そんなものを込めて、人生を共有するごとく、名前を付けるんです。神さまが私たちを愛している、そして私たちに名を付けて名で呼ばれるというのは、神は私たちを造って、エラそうにしてる方ではなく、私たちと人生を共有し、夢を託し、志を託して、私たちの人生を祝福しようとしている、愛しておられるということなんです。イスラエル、中東では自分の名前を子供にそのまま付けることが多いんですね。有名な映画で、「ベン・ハー」てありますけど、あの「ベン」というのは息子です。「ハーの息子」というのが「ベン・ハー」なんですね。ですから、「私の名で呼ばれるすべての者」と書いてますが、聖書は私たちは神の名を付けられている一人一人だ、それほどまでに私たち一人一人を愛しているというのです。十把一絡げで人間を愛しているというよりも、あなた個人を神は愛している、故にあなたは尊いのです。

創造主の栄光を表すとは

 三番目。あなたは神の栄光のために造られたが故に尊い、と聖書は語っています。
「わたしの名で呼ばれるすべての者はわたしの栄光のためにこれを造った。」
と聖書は書いてるんです。この「わたしの栄光のために神が人を造った」と聞いた時に、結局神は、人を支配し、人から称賛を得たくて造ったのか、というふうに思ってしまうかもしれませんが、聖書が言っている「わたしの栄光のために造った」というのはそういう意味ではないんです。似せられていくように、栄光を共有するように、あなたを造った。

神のすばらしさを反映するために造られた

 今、生物多様性ということで、博覧会が東京でされています。多くの生物、種類が世界に満ち満ちていて、その多様性は神秘的だ、というんですね。ある生物学者がこんなふうに言っていました。「生物は本当に多くの種類があり、私たちはまだその種類を数え切ることはできていないが、一つ言えることがある。実は多くの生物の中で、人間だけが、影響を受けて成長するようにできているんでないか。」というんです。その話を聞いて、なるほどと思ったんですね。オオカミに育てられて子供が、四つん這いで走り、また「ワォーン」と鳴くという話。ま、真偽のほどは定かではありませんが、聞いたことあります。たしかに、私たちは育てられるものに影響を受けていくんでないかと思うんですね。でも、オオカミにサルの子を育てさせても、サルは「ウッキッキッキッキ」と鳴き方変えないそうです。イヌも「ワンワン」だし、ネコはやっぱり「ニャー」だし、ニワトリはやっぱり「クックドゥドゥドゥ」なんですよね。私たち人間だけが、育てられたものに似せられて成長していくようにできてるんです。そして人間は、神に似せられ、神に影響を受けて育っていくように造られている。「わたしの栄光のためにあなたを造った」聖書はそう語ってるんです。

真の尊厳を与えてくださるイエス・キリスト

 しかし、私たち人はこの神から離れてしまいました。作品が作者から離れてしまったが故に、自分の価値がわからず、比較によって自分を価値づけようとしています。絶対的愛を失った私たちは、不安と恐れと孤独の中で生きているんではないでしょうか?そして神の栄光のために生きることを失ってしまった私たちは、自分の栄光のために生きて、不完全で、虚しさを覚えているのではないでしょうか?この私たちのために、神は人となって来て下さいました。イエス・キリストです。このイエス・キリストがあなたをもう一度神のもとに立ち返らせるために、救い主として来て下さったのです。どうぞこのイエス・キリストをお知り下さい。そして、根拠ある人間の尊厳をご自分のものとして下さるようにお勧めします。

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