「自ら十字架を選ばれたキリスト」
私は先日、あるナチュラリストのエッセイを読み感心致しました。彼によると自然界は何者か偉大なる知恵者の作品のように思えてならない時があるというんですね。例にあげられていたのはコアラです。実はコアラはユーカリの葉っぱを食べるんですが、この植物には青酸という猛毒が含まれているのです。これは殺虫剤の原料なんです。そして悪名高きナチスの科学者が、大量殺人に使った毒ガスは青酸ガスだったんですね。ところがコアラはユーカリの葉を大量に食べてもへっちゃらなんです。なぜならコアラの腸には青酸を解毒分解する微生物が大量に住み着いているからなんです。
ところでこの微生物をコアラはどのようにして腸の中に住まわせたんでしょう。実は、赤ちゃんの時にお母さんからもらうんです。ミルクからユーカリに食料をチェンジする頃になると、お母さんは微生物のいっぱい詰まった自分の糞を子供に食べさせるんですね。それによって子供コアラの腸内に微生物が移り住むんです。つまりコアラは生まれた時にはこの微生物を体内に宿していないんです。
微生物無しにユーカリを食べるならば、コアラと言えどもひとたまりもありません。死んでしまうんです。さてここで一つ疑問が出てくるのです。現存するコアラは自分の母親から糞を分けてもらって耐性を身につけるんですね。では、一番最初のコアラは一体誰からこの微生物を取り入れたんでしょう。誰かが意図的にこの微生物を与えるか、ユーカリを食べる前に微生物を宿すような何らかの作為がければ全滅してしまうんですね。少なくとも自然にほったらかしていたならば、コアラは死に絶えてしまったはずなんです。そこでこのコラムニストは、自然界は最初に知恵者による何らかの備えがあったと考えられるのではないかと言うのですね。私もそう思います。
すべてを造り、すべてを備えてくださった創造主
聖書によるとこの世界は全知全能の創造主によって造られた作品だと語っています。そしてすべて命あるものはこの神の備えられた恩恵によって生かされているというのです。私はそれが分かるだけでもずいぶん人生の見え方が変わってくるのではないかなと思うのです。例えば自分の誕生日に自分で花を買って自分にプレゼントしたとしてもそんなに嬉しくありませんね。しかし、自分以外の誰かが自分のために花を買って送ってくれたらきっと嬉しいと思うのです。駅に急いでいる時、自分のポケットマネーでタクシーに乗って到着してもあんまり感動しません。しかし、偶然あなたを見つけた友人が車に乗せて送ってくれたらうれしいですよね。誰かが準備した素晴らしいものを、行為によって提供してもらった時、その人の親切に触れて嬉しくなりますね。
実は、私たちが生きて行くのになくてはならないものは、水も空気も太陽も地球も神が準備してくださったものなのです。これを自分のものだと勘違いすると感動も感謝もなくなってしまいます。この世界を創造し、私たちを生かしておられる神を認めるということは、豊かな人生の土台となるのです。そしてそのような神などいないと言う人生観は、豊かな人生の土台の破壊に他ならないのです。聖書はこの創造主に対する無視、反逆、分離のことを罪と語っています。そしてこの罪こそが人間を不幸にしている最大の原因なのです。この罪を永久処分してくださった方こそはイエス・キリストという方なのです。聖書はこう語っています。
「キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
さて、ここにキリストがしてくださった三つのことが書いてあります。
第一に、この方は自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負ってくださった救い主です。
人を赦すことの難しさ
私は先日、クリスチャンの臨床心理士の方の本を読みました。彼は70年も前にあった少年時代の事件が自分の人生に大きな影を落としていたと赤裸々に書いておられました。実は、彼のお父さんは高校の英語教師でとっても生真面目で几帳面な方でした。彼は5人兄弟の4番目です。そして事件は彼が小学2年の時に起こったというのです。その頃、彼の家族は借家住まいでした。それでお父さんは口を酸っぱくして、「いいか借り物の家なんだから決して落書きしてはいけないぞ」と常々言っていたのです。
ところがある日のこと便所に落書きがしてあったのです。それを知ったお父さんはものすごい剣幕で「誰がやったのか!」と怒鳴り散らしたのでした。子どもたちは誰も名乗り出ることが出来ません。お父さんは「正直に言うまでここから動くな!」と言って兄弟たちをテーブルの周りに座らせたのです。すごい形相の父を前に息子たちはますます黙ったままです。彼は自分がやったわけでもないのにえらいとばっちりを受けてしまって、早く兄貴たちが白状したらいいのにと思って座っていました。すると父親が一人一枚ずつ紙と鉛筆を配り、「さあ自分の名前を書きなさい」と言うのです。皆の紙を見たお父さんは、彼に向かって一喝しました。「犯人はお前だ!ほら、名前の字が震えている。これが動かない証拠だ!」彼はショックのあまり言葉が出ませんでした。すると父親は彼を便所に連れて行って、一体どういう格好で落書きをしたのかという現場検証までさせたのです。彼はしていませんでした。ですから悔しくて悔しくてたまりません。それが70年たった今でも鮮明に記憶として残っているのです。なぜ生々しい記憶として残っているんでしょう。してもいないのに汚名を着せられたからです。正しい人ほど濡れ衣を着せられた時、赦すことが出来なくなるんですね。
ところがキリストは何一つ罪の無い方であったのに、十字架に架けられても愚痴も恨みも出てきませんでした。かえってとりなしの祈りだけが出てきたのです。なぜでしょう。キリストは自分から十字架にかかったからです。キリストは十字架に架けられたのではありません。自ら十字架にかかりに行ったのです。いったい何のためでしょう。あなたの罪を代わりに背負うためなのです。
私たちの傷をいやすことのできるキリストの打ち傷
第二に、キリストは傷だらけになってくださいました。それはキリストの打ち傷で、あなたが他の人から受けた不当な傷をいやすためなのです。人はたとい家族であっても、あなたの心の深い所にある傷を完全に理解することはできないでしょう。しかし、キリストはあなたの魂の奥底にある傷を、自分のことのように感じ取り、共感し、その傷をも背負ってくださった方なのです。
私たちと共に歩むことを願われるイエス
第三に、この方は私たちが罪から離れ、義のために生きるように人生をエスコートしてくださる方です。キリストを信じた後の生涯は、キリストと共に歩む生涯なのです。的を外した人生から、創造主の偉大な計画を実現するために用いられる人生に転換するのです。罪赦され、傷いやされ、永遠の天国に国籍を持ち、神の子とされ、来たるべき世界で王となる人生がキリストの中に用意されているのです。
どうぞあなたもこのイエス様をご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。