「真理なるイエスが与える自由」
みなさんの中で読書が趣味という方もおられるでしょう。では、日本で一年間にどれほどの本が発行されるかご存知でしょうか?2010年の統計によると、単行本、文庫本、事典、図鑑、全集合わせて7万6000冊あまりです。1日になおすと209冊ほどになります。もちろん、全部読むのは無理ですが、これらを全部購入して、納めている所があります。国立国会図書館です。その館内に一つのことばが掲げられています。「真理がわれらを自由にする」というものです。これは、真理に基づかなかった政治により悲惨な結果をもたらしてしまったという反省にたち、戦後、政府が国会図書館を作り、正しい知識を伝達していこうと考えたのです。実はこのことばは新約聖書のイエスのことばから来ています。2000年前イエスは次のように言われました。
「…あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
「真理」の元々の意味は「明らかにされている」とか「覆われていないこと」だそうです。確かに、わからなかったことがはっきりすることで私たちは安心したり、喜び与えられたりするものです。
以前、腹痛が続いたことがありました。よくなったり、ひどくなったりの繰り返しでした。ある日突然、痛くなって救急病院に飛び込みました。レントゲンをとった後、お医者さんが言いました。「うーん。心配していましたが、腸はやぶれていませんね。」私は安心したと同時に、複雑な気持ちでした。原因を教えてくれなかったからです。わかならいことが多すぎて不安は解消されなかったのです。その後、いろいろな医者にかかった末、やっと原因がわかりました。腎臓結石だったのです。腎臓にあった米粒ほどの石が私を苦しめていたのです。痛みはしばらく続きましたが、一先ず安心しました。原因がわかったからです。
後で考えてみると、原因がわかったことも安心した理由ですが、それ以上にその病には解決方法があるということがわかったから安心できたのだと思います。もし、それが手遅れの治療不可能な病気だったら、自由どころか、絶望でがんじがらめになっていたことでしょう。このことからわかるように、真理を知ることが必ず自由をもたらすとは限らないのです。真理を知ることで却って、茫然自失となってしまうこともあるのです。
イエスのことばにとどまる祝福
今から3000年前のユダヤの賢者は次のように言っています。
「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」
では、イエスはここで一番言いたかったことは何でしょうか。実はこのことばには前の文章があります。このようなものです。
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」
「わたしにとどまる」というのは、イエスを信頼して神と共に人生を歩んでいく、という意味です。他の箇所でキリストは「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。神から遣わされた救い主であり、真理なるイエスを信頼して歩むことによって、さらにイエスを深く知っていき、本当の自由を得ることができると約束されているのです。
人間が抱える問題の根源
イエスを信頼することでわかる真理とそれがもたらす自由とは具体的にはどんなものでしょう。二つ考えていきましょう。
一つ目は、問題の原因と解決の方法です。
私たちが抱えている問題の根源は「創造主なる神から離れていること」にあります。イエスは、人間の不完全さ、愚かさを語ると同時に、その解決方法を示されました。自分の不完全さを人間は自分たちでは修復できないのです。そこで人間の代わりにイエスは、十字架にかかられ、罪の処分をしてくださったのです。私たち人間が救われるのは、神のための何かをしたとか、他人に良い事をしたという自己中心で、気休めの行いによるのではありません。神の完全な基準の前で、十字架の上で正しく裁かれてくださったイエスの行いを信じる信仰によるのです。
先日、台湾で聖書の研究会が開かれ参加してきました。アジア十数か国から500人ほどの人が集まりました。私はそこで短い挨拶と賛美歌を歌ったのです。帰りの空港でのことです。出国管理のブースでパスポートを出しました。係の人が私のパスポートを見て、急に笑顔になり「やあー。あなた大会に参加していましたね。賛美歌歌った人でしょ!」と声をかけてきたのです。10ぐらいブースがあるのに、偶然にもその人のブースに行くとは、珍しいこともあるもんですね。ところで私が無事に出国できたのはなせでしょう。彼と知りあいだったからでしょうか。そうではありません。正当なパスポートをもっていたからです。法に則って正しい手続きをしたからです。
私たちが神の国に入ることができるのは、聖書の話をよく聞いてきたから、とか祈ってきたから、教会に集っていたからではないのです。私たちの身代わりとしてイエスが十字架にかかって死んでくださり、正しい罪の処分がなされたということを信仰によって受け入れたからです。イエスは死からよみがえることによって、この救いが確かであることの証拠を示してくださいました。この十字架と復活信じることによって罪がもたらすはずであった永遠の裁きからの自由が与えられるのです。
イエスを通して実現した完全な自由
イエスを信頼することでわかる真理とそれがもたらす自由の二つ目は、罪の体から解放と魂の永遠の自由です。
先日、一人のクリスチャン女性が亡くなられました。三年ほど前に癌と診断され、治療が続きましたが、病気の進行をとどめることができませんでした。昨年十一月にホスピス病棟に移られ、静かに最期の時を待つばかりとなったのです。しかし、その頃聖書のことばに出会いました。真理なるイエスを信頼するようになったのです。そのとき以来、痛みや倦怠感は増し加わる一方でしたが、魂の平安は揺り動かされることはありませんでした。医者の予想を三倍も上回る長きにわたって地上の生涯を送られました。
信じてすぐ亡くなられたのであれば、「溺れるもの藁をもすがる」で、「とにかく目の前にあるものに寄りすがったのだなあ」と思われたかもしれません。しかし、彼女は半年以上、イエスのもたらす福音が真理で、本当の自由、永遠の自由をもたらすものであることを味わってこられたのです。目で見えるこの肉体は罪に縛られ、朽ち果てていきます。しかし、イエスを信じたものは、この死の体から自由になり、魂は神のもとに返り、新しい体が与えられる約束が与えられているのです。
イエスの救いは「単なる気休め」でもなく、夢物語でもありません。2000年間、クリスチャンたちが味わい、確かめ、実証してきた事実に基づく救いです。みなさんも是非、この救いをもたらす「福音の真理」を知り、イエスを信頼するものとなってくださることを心からお勧めしたいと思います。