「虫食い南蛮と罪の赦し」
私は先日バードウォッチングを趣味にする方のお話を伺いました。彼が言うには鳥を見ると鳥を造られた知恵者の存在を意識せずにはおれないって言うんですね。その具体例の一つとして彼は卵の形を紹介してくれたのです。鳥の卵は魚の卵と違って先細った楕円形をしています。どうしてまん丸の形ではなく楕円形になっているんでしょう。彼は鶏の卵を机の上に置いて、そっと転がして見せました。何とこの形だと転がっていっても元の位置に戻って来るんです。まん丸だとどこまでもコロコロと転がっていってしまいます。しかし、鳥の卵の特殊楕円形は産み落としたところから転がっていっても、自動的に元に帰って来る様なデザインになってるっていうんです。唯一の例外はフクロウです。フクロウの卵はまん丸なんですが、恐らく木の穴の中に産み付けるため、転がっていく可能性がまずないからではないかと言ってました。
ところで卵はどうして子孫を守るのに一番都合の良い姿かたちをしてるんでしょう。鳥自身がそのように考えたのではないのは明らかです。誰かがそのようにデザインしたと考えるのが一番合理的です。確かに鳥に必要な姿かたちを与えて造られた方、自然界に存在するすべての命あるものに絶妙な仕組みを設計された方がおられます。聖書はその万物の作者のことを神と呼ぶのです。鳥の卵にすら細心の配慮をもってデザインなさった方が、どうして鳥よりも優れているあなたをお忘れになることがあるでしょう。神はあなたを愛しておられるのです。今日は神があなたを愛してると明言する聖書の箇所をご紹介いたしましょう。聖書にこう書いてあります。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
聖書によれば、神は私たちが罪人である時に、愛を明らかにしてくださったというのです。ところで罪とはなんでしょう。この番組を日曜日の朝から聞こうとしてくださるあなたは、どちらかと言ったら真面目な方だと思うのです。たまの休みの日曜日に、朝から起きてラジオで聖書のメッセージを聞くっていうのは平均よりも真面目な方が多いと思うのです。そして真面目な方であるゆえに法律を破ったり、警察につかまったり、有罪判決を受けた過去があったりということはまずないという方が多いと思います。しかし、この世の法律では無罪潔白の方も、神の前には一人残らず罪人なのだと聖書は語るのです。
聖書が語る罪とは
今年の6月30日、イスラエルの元総理大臣であったシャミールという政治家が96歳で亡くなられたということが報道されていました。アルツハイマー病でした。彼は元イスラエルの諜報機関で働いていた工作員です。イスラエルが出来る前にポーランドから移住して、独立運動に奔走していた人物です。現代中東政治の裏の裏までも良く知っている人物です。実は、私はこの方に二度ほどお会いしてインタビューしたことがありました。彼に面会するのは大変なことでした。と言うのも多くのテロリストに命を狙われている人物であったからです。会談前に何度も質問を受け、ボディチェックを受け、持ち物検査を受け、ようやくのことで執務室に通されたのです。会談は約一時間、とても和やかな雰囲気で盛り上がったと思います。
とんでもない過ち
そろそろ約束の1時間になるので、私はインタビューを切り上げようと思った時、日本から持ってきた土産物を渡すのをすっかり忘れていたということに気が付いたのです。それは京都で買った蒔き絵模様のアドレス帳でした。金箔の美しい包装紙できれいに包まれたそのプレゼントは、きっと喜んでもらえると内心私には自信があったのです。「閣下、日本からのプレゼントです。」そう言って私は手渡そうとしたのです。しかしシャミール氏はそっと一歩後ろに下がったのです。とその瞬間、SPたちが一斉に立ち上がり私を捉えたのです。すぐに彼の秘書が言いました。「あなたは何ということをしたのです!安全チェックを受けないものを包みのままで渡すなんて!あなたは今イスラエルで一番してはならないことをしたのですよ。」
実は、イスラエルでは要人暗殺攻撃に最もよく使われる手段がプレゼント爆弾だったのです。私は善意でプレゼントを渡したつもりでした。しかし、それはイスラエルの基準と常識ではタブーの中のタブーだったのです。自分としては良いことをしたつもりだったのですが、実はとんでもないルール違反をしていたというのです。これは神に対しても言えるのです。自分としては立派に生きているつもりでも、神のルールに照らした時に、弁解の余地無き罪に該当するということがあり得るのです。
罪人を見捨てられない創造主
では聖書の語る罪とは何なのでしょう。それは神を神として認めないで、神から離れて生きることです。私たちの魂の親であり、命の支え主であり、祝福の源である神から離れ、神を神として認めずに生きることを罪と言うのです。ところで、いじめとはなんでしょう。クラスメートをクラスメート扱いせず、物の様にひどく扱うことです。不倫とはなんですか。配偶者を配偶者として認めず、配偶者の権利を踏みにじって他の人に走ることです。虐待ってなんですか。我が子を我が子として認めず、八つ当たりの対象物のようにして扱うことです。これらは皆この世の法律に照らしても犯罪なのです。人格ある存在を人格ある存在として認めず、裏切り行為をするということは罰に値する罪なのです。ならば、最高の人格的存在である神を神として認めずに生きるということは、当然罪なのではありませんか。聖書は、この罪の故に人は一度死ぬことと死後に裁きを受ける者に成り下がったのだと語っているのです。しかし聖書は同時に私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの代わりに死んでくださったことによって、救いの道が実現しているというのです。
神が私たちのためにしてくださったこと
豊臣秀吉の部下の一人に加藤嘉明という武将がいました。絶体絶命の戦争で無類の強さを発揮した人物です。彼の強さの原因は命知らずの家来をたくさん持っていたことにあります。ところで彼には一つ宝物があったのです。十枚一組の小皿セットでその名も「虫食い南蛮」という名のついた高価な高価な器です。ところが来客にこの皿を出そうとしていた時、家来の一人がうっかり一枚を割ってしまうのです。みな息をのむ中、それを知った加藤嘉明は残り九枚を持って来させ、皆の見てる目の前で、何と自ら全部割ってしまうのです。なぜそんなことしたのでしょう。九枚残っている限り、いついつ誰それが一枚割ったということがいつまでもいつまでも人々の口に上るということを彼は潔しとしなかったのです。部下の過ちを跡形も残さず消し去るために、彼は家宝を自ら破壊してその咎を覆ってやったのです。
ところで神はそれ以上のことを私たちのためにしてくださったのです。私たちの罪を覆うために皿ではなく、ご自分の一人子を打ち壊してくださったからです。なぜそのようなことをなさったのでしょう。これ以外に罪人が赦される道はなかったからです。どうぞあなたもあなたのために御子をお捨てになった神をイエス・キリストによって信じてください。心からお勧めしたいと思います。