「平安に至る道~罪の赦し~」
みなさん、こんにちは。高原剛一郎と言います。キリストが語った言葉をまずお読みしたいと思うのです。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
どういうときに私たちは心騒ぐことから脱出できるでしょう。罪、咎、失敗を完全にぬぐい去られたということを確信できるとき、私たちは「ふぅ、よかった」と安心するんじゃないですか。逆に、いつまでも過去の咎、過去の失敗、過去の罪が生々しく思い出されて、いつまでもいつまでもそのことが残っているときに、なかなか気力が湧いてこないのではありませんか。心が折れてしまうのではありませんか。しかし、私たちの罪を全部ぬぐい去る方がおられるというのです。
現実を離れて味わう喜び
実は皆さん私ね、去年、生まれて初めてね、ディズニーランドに行ったんですよ。いやぁ、良かったね。実はですね、東京ディズニーランドにはね、他の普通のエンタメ施設にあるモノが三つないそうです。よその遊園地とか、よそのなんか楽しい施設には必ずあるものが、ディズニーランドに限ってはない、というものがね、三つあると。
第一番目に、「鏡」がないそうです。なんで鏡がないか言うたらね、夢の国に鏡があったら、自分映りますよね…一気に我に返りません?夢でもなんでもないやん。こりゃ夢がない、だから鏡は見せない!と、これがディズニーランド。
二番目にね、「時計」がないんですって。何で時計がないか言うたらね、私たちは毎日毎日ね、時間に追われてるでしょ。今この瞬間だって、ね、後ろで若倉さんがこないしたりこないして…時間、時間ね。「まけ!」とか来るわけよ。ここ夢の国じゃないここ。ね?もうね、いつも時間に追われてる人たちに時間を忘れさせるためにはね、時計を見せたらあかん言うことで。ディズニーランドに時計はない、しかし…腕に巻かれているという、こういう問題があるわけですよね。
そして三番目にね、ディズニーランドにはね、「従業員」がいないんですよ。そんな会社はないやろ、とまぁ、従業員はいるんですけど、「従業員」という名前の従業員はいないんですって。何がいるかといったらですね、「キャスト」。キャストというのは、「配役」という意味です。もう役者がいてる、役者といったらね、ミッキーとかね、ミニーとかドナルドだけが役者じゃない、実はですね、そこで働いてる掃除する人とかなんやする人、みーんなね、キャスト!ね?
平安を失いやすい人間
この夢の国にね、現実を引きずり込んでる家族がいたんです。お父さんとお母さんと幼稚園ぐらいの女の子とおじいさんの四人家族がね、ベンチのところに座ってるんですけど、お母さんが女の子に向かってガミガミガミガミ…あんたはどこに行ってもドジで何をやらせても失敗ばかりでもぉ……もうね、そもそもお母さんのガミガミ言うのを聞いていたら夢の国のムードぶち壊しでしょう?もうこのお母さん今そんなに怒らなくてもいいのにと思って…もう、でもね、何かがあったんです。でお母さんはですね、「お父さんとお母さんは売店に行ってお土産を買ってくるから、あなたたちはここで留守番してなさい!」とか言ってね、その女の子にね、大きなバスケットにいっぱい入ったポップコーンを渡して、でおじいちゃんにソフトクリーム二本渡して「この子ちょっと見ててください、私たちちょっと行ってきますから!プーン!」と言ってサーッという感じで…で泣きながらね。
思いがけず与えられた喜び
その女の子がこのベンチに腰掛けるときにちょっと前かがみになった瞬間に「あっ」て、ポップコーン地面にバラバラバラと落としたんです。「あぁぁー何するんじゃー」言うた瞬間に、おじいちゃんが「ポッ」とね、ソフトクリームを落としたというんですよね。つまりね、地面は、ポップコーンとソフトクリームが程よくブレンドされてですね、この…ネチャネチャやこれ。汚い。そういうところにお母さんがUターンで帰ってきてその現場見たらどうなる。多分ね、朝からこの連続だったんでしょう。「もういい加減あなたたちといたら~!プッチーン!」おそらくね、ちびまる子と友蔵じいさんのような…まあ、お二人だったんでしょう。
もう二人でどうするもこうするも隠しようがないどうする…ってうろたえてた時にキャストが来たわけよ。掃除する人。そしてね、もうあっという間にもう痕跡も残さないようにきれいにその汚れを拭い取って去って行ったかと思うと、新品のポップコーンとソフトクリームを「どうぞ」って言ってくれたんですよ。…いいですか重要なこと言いますからね…タダです。タダですよ皆さん。タダっていうのはね、無料のことです……なにを言うてるんですかもうね、どうもすいませんね。そうなんですよ。
それでね、それを見てた人がね、もうねそのこう友蔵じいさんとちびまる子がね、もうニコニコニコニコしてるんですが、失敗する前よりも、失敗した後の方がまるで幸せそうだったと。どうして失敗したのに幸せそうなんですか。失敗したら当然ペナルティが来る、罰が来る。とがめられると思ってたら、思いがけない親切と出会ったからです。
罪の重さは何によって決まるか
まぁソフトクリームやポップコーンを落とすくらいはこれはね、罪というんじゃない。これは失敗ではあるけれども人間として人格的にどうのこうのということではない。だけど、今まで自分が生きてきた人生振り返っていったときにね、誰をも傷つけたことなんか一回もないという人いらっしゃいますか。誰に見られてもぜんぜん恥ずかしくないって言い切れる方って、一人でもいますか。
いや私誰にも迷惑かけたことがないという方、いらっしゃいますか。いるかもしれません。誰にも迷惑かけたことないってね、でもね、迷惑ってね、かけられた人が感じるもんなんです。大抵かけてる人はね、わかりません。ありがた迷惑って言葉ありますよね。本人はね、「親切にしてあげた~!」って思ってるんですけどね、「やめて!」っていうね…まあね、私たちはね、そういうことから始まって、人としてどうなのかなあ、そして、人に対してそのようにしてはならないこと、言ってはならないこと、やってはならないことをやってるように、自分自身に対しても自分を貶めたりしてはならないことをしてる。ましてやね、私たちを造ってくださったまことの神様に対してもそのようにしてるのではありませんか、と言うのです。
皆さん、腹が立ったからといって物をバーンと蹴っ飛ばすって悪いことでしょ。でも腹が立ったからといって犬を蹴っ飛ばすってもっと悪いことですよね。でも親蹴っ飛ばすってもっともっと悪いことですよね。やつ当たりするっていうのは何に対してやっても悪いことですが、物に対してしたのか、人に対してしたのか、神に対してしたのか、誰を相手にした罪なのかによって重さが違うのです。
人の愚かさとそれを覆う神の救い
この世界をお造りになった真の主権者、私たちのいのちの造り主、あなたのいのちの第一原因者。天地万物の造り主を無視して、神などいないかのような人生観で生きることを聖書は罪というのです。そしてこの罪を清めて拭い去るというのはね、モップで拭いて何とかなるような生易しい問題ではないのです。人は自分の過去を消すことはできない。ましてや、全知全能の神様の前でそれをなかったことにすることは本来できないのです。
しかし、その人間がしでかしてしまった罪を、私たちに代わって償う方が登場したのです。その方こそは、イエス・キリストという方です。この方はその口になんの偽りもなかった、悪いことは何一つなさらなかった、いや良いことしかなさらなかった、正しい方であった、この正しい方がなぜ十字架にかかって死刑にされなければならなかったんでしょう。いや、正しい方であったので、十字架にかかる資格を持っておられたのです。人間が罪赦されるためにはね、まったく罪のない方が身代わりにその罰を引き受けるということ以外になかったのです。この人間の罪を私たちに代わって引き受けてくださった救い主はイエス・キリストなのだということを信じなさい、とおっしゃったのです。心騒ぐものよ、神を信じまた私を罪からの救い主として信頼しなさい、という呼びかけなのです。
ぜひ、神の胸元に、キリストによって飛び込んでくださいますように、心からお勧めしたいと思います。