「正しさを要求する人 命を提供するキリスト」
私は先日、子供四人を連れて動物園に行ってきました。大人になっていく動物園っていうのは楽しいですね。子どもたち以上に、大はしゃぎしてしまったんです。ランチの時に事件は起こりました。私の息子一歳半になる次男がテーブルによじ登ろうとしたので、私の家内がそのお尻をスパーンと「駄目よ」と言って叩いたんです。
そうすると、テーブルの後ろの方から、「子供をたたくんじゃねぇよ」という言葉が聞こえました。私はびっくりしてふっと振り向いたんですが、家内は気付かずに、まだよじ登ろうとしている息子のお尻をもう一度、「駄目よ」と言ってたたいたんです。そうすると、もっと大きな声で「子供をたたくんじゃねぇって、言ってるんだよ。」その食堂が、シーンとなるほどの大きな声でした。さすがに私の家内も、びっくりしたんです。私はこのシーンをどう乗り切ろうかと思って、「いやぁ、あのぉ、私がお宅の息子さんをたたいたんやったら、おこらはる理由もわかるんですけど、うちの息子のことですから、しつけですから。」と言ったんです。そうすると、「しつけって言ってもね。おまえらが子供をたたくから、子どもが子どもをたたくようになるんだよ。虐待だよ。」まぁ、ヒステリックに怒らはったんです。子供たちは、「パパァ喧嘩はダメなんだよ。」って、言ってます。私は「とにかくわかりました。あのぉ、とにかくほっといてください。」と言って、その場を収めました。
私はこのことを通してはたと考えさせられました。私たちは、自分の基準で何が正しいかということについて、考えるということです。そして、正しさを主張し合う中には、争いや問題が起こってくる。これはどっちが正しいということよりも本当に大きな問題だなと思わされたのです。
今日皆さんにお話ししたい、聖書の中心人物イエスキリストは私たちにご自分の正しさを主張するために来られた方ではありません。聖書のメッセージと聞くと、聖書だけが正しいって言っているんでしょ。そのように思われる方が多いんですけど、キリスト・イエスは、罪びとを救うためにこの世に来てくださったのです。正しさを主張する人の基本的な土台は、命の問題に直面していないということがあると思います。基本的に元気なんです。でも、イエスキリストは、私たちに、死から救う、命の問題を解決する、罪から救うために来てくださった方なんです。
人間にとって最大の問題とは
私が、若いころ、母親は私によくこう言ってました。「直人、人間は食べられへんようになったら死ぬんやで、病気の時こそ食べなあかん。」確かに私の母親は、病気になっても元気でも、よーく食べています。体型はご想像にお任せしますが、今も感謝なことに、元気です。でも、最近、本屋さんに行ってよく見かける本は、ダイエット、食べない方が健康になる、空腹が人を健康にするというたぐいの本です。さて、どちらが正しいのでしょう。
あるクリスチャンの医学者が、こんなふうに書いてる記事を見つけてなるほどなと思いました。こう書いていたんです。死にたい人は、息をしてください。もっと早く死にたい人は、息を止めてください。死にたい人は食べてください。もっと早く、死にたい人は何も食べないでください。酸素というのは生きるためにどうしても必要だけれども、この酸素は、同時に私たちを死に至らしめる組織的毒素だというんですね。私は医学者ではありませんので、詳しいことは分かりませんけど、この記事を読んで、こう思ったんです。そうか、どっちにしても、死ぬのか。私たちは、どちらが正しいかということを、食べるか、食べないかということを議論しても、最終的には、本当の問題は、死んでしまうということなんです。聖書の神は、イエスキリストを通して、私たちに死からの復活、よみがえり、死の解決を与えたいと思っておられる方です。ご自分の正しさを主張しておられるのではないのです。
聖書にこんな言葉があります。
「あなた方は、死者の中から、このキリストをよみがえらせて、彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにしてあなた方の信仰と希望は神にかかっているのです。」
聖書が語る信仰の意味
神はこのキリストを通して、私たちの最大の問題である死を解決しようとしておられるのです。私たち人間は自分の正しさを裏付けるために富み、教育、道徳、ボランティア、善行などというものをいろいろ持っていますけど、神がもっとも私たちに与えたいのは、死の解決です。そして、この死の解決は、信仰によるのだと書いてあるんです。
私たち日本人がこの信仰ということについて聞くと、だいたい信仰は程度が問題だと考えているんですね。宗教はちょっと話を聞くのはええけど、あんまり踏み込んだらあかんでという考え方です。私も友達によく言われます。「お前ほどはまり込んでしもたらあかん」というわけですね。もしくは、「おまえほど熱心にやってたら、そりゃ救われるかもしれんけど、俺は不信心やからなぁ。」ということです。ここでのポイントは、私たち日本人は、信仰というのは、程度が大切なのであって、対象ではないと考えていることなんですね。でも、聖書は私たちの信仰は、対象が大切だと言っているのです。
どれだけ信じるかでなく何を信じるか
あるアメリカであった話を聞きました。セスナ機に四人の人が乗っていたそうです。一人はそのセスナ機の所有者であり、パイロット。二人目は、大学の教授。三人目が、牧師。そして四人目が、バックパッカーの青年だったそうです。この四人が飛行機に乗っていますと、パイロットから「二つの悲しいおしらせがあります。」というアナウンスが入りました。「一つ目はこのセスナ機はエンジントラブルによって、墜落します。二つ目、このセスナ機にはパラシュートは、三つしかありません。」この情報が流れて、その後パイロットはこう言ったそうです。「私はこの飛行機の所有者であり、パイロットであるので、まず私が、パラシュートを使わせてもらいます。」そのようにして飛行機から飛んで行ったそうです。残ったのは三人、パラシュートは二つです。大学教授がこう言いました。「私のこの頭脳は、まだ世界に必要とされている。だから、このパラシュートは私が使わしてもらいたい。牧師よ、あなたはいつも死後の解決があるとか、永遠の命があるとか言っているじゃないか。まぁ、後は、青年と話してくれたまえ。」そういって、飛んで行ったそうです。残った二人、牧師と青年は、このように話したんです。牧師が青年に向かって言います。「そうだ。確かに私は今まで、多くのクリスチャンが自分は、問題ないから、青年よ君にこの救命ボートを譲るとか、私は大丈夫だから、あなたがこれを使いなさい、そんな話を聞いてきた。でも、自分が本当にこんな場面に遭遇するとは、思っていなかった。でも、青年よ、私はイエス・キリストを信じて、死後の解決があるから、このパラシュートを使いたまえ。」そうすると、青年がこういったんです。牧師さんここにパラシュートは、二つあります。」「ええー。」よく見たら、パラシュート二つあるんです。「さっきの教授、僕のカバンを背負って飛んでいきました。」
神が用意した救いこそ信頼できるもの
皆さん、どれだけ堅くカバンが自分を救うと信じて背負って飛んでも、カバンは、この教授を救うことはできません。どんなに疑って、パラシュートを背中につけて、飛んでも、パラシュートがその人を救うのです。
信仰は私たちが、どれだけ堅く信じるかという程度が問題なのではなく、その対象が私たちを救う力があるのかどうかということが大切なのです。そして、聖書はこの神はイエスキリストをよみがえらせて、私たちを、救うことができる唯一の方だと、教えているのです。こういうわけで、あなた方の信仰と希望は神にかかっているのです。ぜひ、このイエス・キリストによる死後の解決を皆さんのものとしていただくことをお勧めして終わりたいと思います。