「人の現実、神の現実」
私は先日、「上・中・下」というタイトルの詩を読みました。「言われてもしないのは下の下、言われてするのは下、言われなくてもするのは中、自ら気づいてするのは上、相手に気づかせずにするのは上の上。寝ている赤ちゃんのおしめを換える母のごとく」という詩です。本物の気遣いと奉仕は、相手が世話になっていることを気づかないほどさりげなく、押し付けがましくもなく、しかも手厚いもので、それをやっているのがお母さんなんだって言うんですね。同感ですね。と同時に私は、私たちの造り主である神様のことを思いました。なぜなら私たちをお創りになった神は、私たちが信じていても信じていなくても、生きていくのに必要な空気や水やいのちを黙々とさりげなく与えていて下さる方だからです。今日も、あなたをお造りになり、あなたを生かし、あなたを愛しておられる神の言葉から考えましょう。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
このみことばの中に、二つの現実が語られています。人間の現実と、神が人間のためにして下さった現実の二つです。
人間の現実って何でしょう。罪を犯した存在としての現実です。罪のために死が決定付けられている存在だ、というのです。ところで、罪といってもなかなか自分のことだとピンと来ない方も多いんじゃないでしょうか。というのは、私たちは罪と言ったとき、大体二つのイメージで捉えがちだからです。
罪と聞いて私たちが思い描くこと
一つは、人に迷惑をかけることが罪だ、という考えです。自分は人様に迷惑をかけて生きてきたわけではない、だから罪人などと言われる理由はない、と考えるんですね。しかしこの考えには無理があります。というのは、迷惑というのはかけられた人が決めることで、かけた本人が決めることではないからです。本人は誰にも迷惑をかけているつもりはなくても、十分迷惑だと感じている人がいるんじゃないでしょうか。そもそも、人の世話にならずに生きてこれた人など誰もいないわけですから、誰にも迷惑をかけた覚えがないというのは本人の勘違いだと思うんですね。
次に、法律を破ることが罪だ、という考えです。私は今まで警察に逮捕されたり、裁判で有罪判決を受けたことなんて一回も無い、だから私は罪人なんかじゃない、という考えですね。私自身も逮捕されたり有罪判決を食らったことは一回もありません。しかし、ただの一回も法律を破ったことが無い、という自信もありません。今まで一回も信号無視したことはないか、一回もスピード違反したことはないか、一度も駐車禁止の場所に車を止めたことはないか、キセルをしたことは一回もないか、二十歳未満の時に一口もアルコールを口に含んだことはないか…。正直言って、全部やりました。しかし、逮捕されたり有罪判決を受けたことはありません。何故でしょう。見つからなかったからです。あるいは見つかっても大目に見てもらったからです。この世の法律でも、厳格に適用するなら、私は立派な犯罪者の烙印を受けると思います。
自己中心の生き方はしんどい生き方
しかし、聖書が語っている根本的な罪というのは法律を破るということでもないんですね。これも罪の中には入りますが、聖書の語る罪、それは神を無視して生きるということなのです。神に背中を向けて生きることです。神などいないと仮定して、自分を神として生きることを罪というのです。神を中心に生きるように造られていながら自分を中心に生きることを、罪と語るのです。神を認め、神を敬い、神を畏れて生きる、ということではなく、相手に自分を認めさせ、自分という人間に恐れ入らせようとして生きることなのです。この自己中心の生き方は一見楽しそうなんですが、本当のところは大変しんどい生き方です。
もしあなたが誰かと張り合おう、誰かに一目置かせてやろうとすると、おそらく心乱れることが多くなるでしょう。なぜなら相手は、簡単には思い通りにはなりませんから。しかし、相手から教わろう、教えていただこう、とすると平安になります。自分の知らないことを知っている相手から教えを受けるというのは、自分の持っていないことをタダでもらえるということです。思うようにならない相手は、私が神に祈るように仕向けてくれるコーチのような存在だと考えることができたら、本当に楽になると思います。そして本気でそのように思えたら、人生におけるストレスはもっともっと軽減されるに違いありません。しかし、人間の現実はこの正反対です。神を人生から追放し自分自身を何よりも崇拝する人生は、自分真理教というカルトな生き方だと思うのです。この自己中心が今の世の破壊と悲惨の元凶です。そしてこのいのちの源なる神様から離れた結果、人間は死ぬものとなったのだと聖書は宣告するのです。
神が私たちのためにしてくださったこと
しかし聖書は、神が死に向かっていく人間のために私たちに代わってして下さった現実についても語って下さるのです。神は、死につつある人間、滅びつつある罪人を救うために、死とまったく無縁なキリストをあの十字架の上で死なせ、人間の身代わりとして裁いて下さったのです。そしてこのキリストを死後3日目によみがえらせ、死を滅ぼし、どんな過去のある人にも永遠のいのちと天国を準備して下さったのです。
暗黒の死から光ある天国へ
アメリカのニューヨーク州ビンガートンというところにある銀行が、新しいビルに引越しした別の銀行にお祝いの花輪を届けさせたことがありました。ところが花屋さんが大変なミスをしてしまったんです。お祝い花輪に添えられていたカードに、なんと「心よりお悔やみ申し上げます」と書かれていたんです。クレームをつけられた花屋さんは平謝りに謝りました。しかし、もっと致命的なミスがあったのです。銀行のお祝い花輪に備えられるはずのカードが、あろうことか、葬式花輪に付いていったんです。しかも、17歳で亡くなったあるクリスチャンの少女のお葬式だったのです。血相を変えた花屋さんは彼女の葬儀場に駆けつけ、そしてご両親に心からお詫びしたのです。しかし両親はそれほど怒ってはいなかったのです。むしろにこやかに笑ってこう言ったんです。「この方が娘にふさわしいと思うんですよ」カードにはこう書かれていたんです。「祝移転・引越しおめでとう」キリストを信じて亡くなった者にとり、死は地上から天国への引越しに過ぎないのです。苦しみ、悩み、病、悲劇が横行するこの地上から、涙も別れも苦しみも無い、そして自分のためにいのちを捨てて下さった方の国へ引越しするということなんです。
死ですらも祝福に変えた方、それがイエス・キリストなのです。どうぞあなたも、キリストを信じて、死の完全解決を受け取って下さい。心からお勧めしたいと思います。