「破壊が生み出す再生」
この夏、日本の民間企業が一番心配していることはなんでしょう。計画停電です。電力需要がピークに達する今週から来週にかけては、とくにぴりぴりしています。そして万一、停電が実施された時、ダメージを受けないようにするためにあらゆる手を打っています。最も多いのは、夜の間に電気を貯めておく蓄電池を備えることです。決して安いものではありませんが、停電になった時に困らないようにするため、背に腹は代えられないてっいうわけです。
ところで、この夏の計画停電は、もしかしたらあるかもしれない、ということです。必ずやってくる、とは限らないピンチです。いや、やってくる確率は高くはないと思います。しかしそれが起こった時の損害があまりにも大きいので前もって備えをするんです。絶対に起こるとはいえない危機ですら、このように万全の備えをすることが良いことであるとされるならば、100パーセント必ずやってくるピンチに対しては、なにがなんでも大丈夫なように準備しておくべきではないでしょうか。私たちの身の上に必ず降りかかってくる危機とは何でしょう。それは死と死後のさばきです。人間は誰でも死を迎えます。誰でも経験するこの死の問題は何をおいても解決しておくべき事です。なぜなら人は死によって自分の魂を永久に損なうという途方もない損害を受けるからです。
ところで、日本には昔から、言霊信仰というのがあるんですね。言葉には霊的な力が宿ってるという考えです。それで実際に声を出して言った言葉はなんらかのかたちで実現していくと考えたんです。良い言葉を出せば、良い事が起こり、悪い言葉を出せば、悪い事が起こるというわけです。特にお祝いの席では、破壊を連想させるような言葉やふるまい、行動は避けようとしました。別れを連想させる言葉は、実際に別れを呼び起こすと恐れられたからです。ところが、そういう文化の日本の中で、破壊をもってお祝いとする行事がいくつもあるんです。たとえば、新幹線が開通したとき、テープカットします。テープをチョキンと切り落とすんです。また新しい船が処女航海するときには、シャンパンの瓶を船体にぶつけて、ボトルを粉々に粉砕してお祝いするんです。また新しいショッピングモールやお店が開店したときには、くすだまを割って祝うんです。切ったり、砕いたり、割ったりする行為はすべて潰す行為です。それは何かを損ねる行為です。しかし、何かを破壊することによって、新しい事が始まると表すのです。
十字架処刑は窒息死する刑
私がこれらのセレモニーを見るとき、どうしても思い出さずにはおれない事があります。それは、キリストの十字架です。十字架とは死刑の方法です。しかも、これほど徹底的に人間をおとしめ、痛めつけ、破壊するものはないのではないかと思われるほど、残酷な処刑なのです。全裸にした囚人を十字架の上に横たわらせ、両手両足に三本の釘を打ち込みます。そして、身体もろとも十字架を垂直に立て、穴の中にどすんと落とすのです。肉体は当然引き裂かれます。しかし、十字架処刑は出血で死ぬのではありません。窒息死する刑なんです。身体は体重で落ちていきますが、釘で留められた腕のために横隔膜が引っ張られて、呼吸ができなくなるのです。呼吸するためには張り付けられた腕を使って、けんすいしなければなりません。ようやく一呼吸するとガタッと身体が落ちます。次の呼吸のためには再び腕の力で身体をせり上がらせていかねばならないのです。身体を持ち上げたり、下ろしたり、持ち上げたり、下ろしたり。この持ち上げていく体力がなくなった時、窒息死するという死刑なのです。
十字架の上で支払いが完了した
この恐るべき十字架の上で、キリストはこう宣言なさったのです。「完了した。」一体何が完了したんでしょう。この完了した、と訳されている言葉は、実は経済用語なのです。「テテレスタイ」というギリシャ語ですが、これは経済用語です。直訳すると、「支払終えた」「支払が完了した」という意味なのです。実にキリストはあなたの罪の償いを完了した、と宣言されたのです。キリストがあなたに代わって、あなたの罪の責任をすべて背負い、あなたが死んだ後で受けることになっていた、すべてのさばきを終わらせて下さったのです。キリストが十字架の上で砕かれることによって、あなたに罪の赦しと永遠のいのちをもたらされたのです。
赦しの宣言を受け入れない人
私は以前、クリスチャンの友人からとても高価な夫婦湯呑をいただいたことがありました。茜色をしたその湯呑は、とある陶芸家が私のためにこしらえてくれた、世界で一つだけの芸術品です。その肌触り、口あての心地良さに、私はすっかり虜になり、とっても大切にしておりました。ところがある日のこと、隣の部屋ではしゃいでいた子供たちが、一瞬静まりかえったかと思うと、「い〜いやや、い〜やや、割〜りよった、割りよった〜。」というのです。私は背筋がぞっとしました。そして部屋に駆けつけてみると、そこには無残にも砕け散った私愛用の湯呑があり、その傍らにうなだれた小学一年生の娘がいたのです。私は一瞬怒りの気持ちが湧いてきました。が、娘がすぐに謝ったんです。「お父さん、ごめんなさい。お父さん、ごめんなさい。」何度も謝ったのです。私は言いました。「正直に謝ったんだね。赦す。」
ところが、問題は解決しなかったのです。この日を境に娘は私に近づかなくなったのです。目を合わせようともしません。言葉も交わすことがないのです。その理由ははっきりしていました。私の赦しの宣言を、受け入れていないからです。お父さんは口では赦すと言っても、内心まだ怒ってるにちがいない。お父さんの気持ちはくやしいのに違いない。お父さんは今でも私を赦していないに違いない。
赦しは買い取るのではなく受け入れること
そして、数日した時のことです。彼女は私の部屋に入ってくるなり、「お父さん、これで赦して下さい。」と言って、一万円を持ってきたのです。それはお年玉の貯めたお金だったのです。私はその現金を見たとき、本当に悲しくなりました。私がこんなに赦しているって言ってるのに、それを信じようとせず、自分の力で赦してもらおう、いや、赦しを買い取ろうとしていたからです。「そんなことしなくても、赦してるんだよ。」と引き寄せ、抱きしめた時、ようやく娘に笑顔が戻りました。私が受け入れているということを、受け入れたからです。
赦しを信じて受け入れますか
あなたの罪と死の問題は、キリストが十字架の上で支払いを終えて、完了してくださったのです。あなたはこの赦しを信じて、受け入れますか?それとも自分の力で何とかしようとするのをやめようとしませんか?神は受容してくださったということを、受容しませんか?本当の平安の道は、神があなたのためにしてくださった赦しを、ただ受け取るというところにあるのです。
どうぞキリストの支払完了宣言を額面通り受け取っていただきたいのです。そうするならば、あなたに瞬時にして、神の子供とされる特権、罪の赦し、永遠の天国への国籍が与えられるのです。どうぞこのキリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。