「イエスはあなたを愛されている」
私の姉の家では、猫を3匹飼っています。ですから壁や障子のあちらこちらに猫の爪痕があるんですね。よく、あなたは猫派?それとも犬派?と聞かれたりします。この世界は、このどちらかに分かれると言う人もおられますが、私は子供のころから「犬派」です。「どうも猫は、好きになれない」姉にそのように言いますと「それは猫を飼ったことがないからだ」と言うのです。猫には不思議な魅力があるそうです。猫はとても気まぐれです。自分の都合が良い時には、主人にすり寄って来ますが、来たくない時には、いくら主人に呼ばれても一向に来ません。また時には、自分が大切にしている鞄や服をぼろぼろにされる事もあるそうです。だからと言って、それで猫を嫌になることはないんですね。それどころか、全く変わらず、愛情があふれてくるというんです。どうも私には理解できません。私は主人に忠実な犬の方が、ずっと好みに合っています。
そう言いますと姉が「猫を見ていると、神さまの前の自分をみている様な気がする。私は自分の都合で神様の前に出たり、出なかったりするでしょ。でも神さまは、そんな私をどんな時でも、心から愛してくださっているんじゃない。気まぐれな猫に対して私の愛情が変わらず、湧きあがるのを見ていると、どんなことがあっても変わることのない愛情で愛してくださっているんだなぁ。」としみじみ感じるの」というのです。
神の知恵の偉大さはこの世界に
この世界には、神さまの素晴らしさを知る手掛かりは、色々あります。先日の金冠日食などの天体ショーもそうです。狂う事がない秩序が天体運行の中にあるからこそ、その日時を正確に知ることができます。また、大自然の景観の美しさには、圧倒されます。そして、自分の体を見る時、良くもこれほど精密な身体を持っているなぁ、と感動したりします。脳は体全体を制御し、心臓は血液を送り続け、肺は酸素を取り入れ、胃は消化をし続けているのです。これが偶然にできたとは、とても考えられないのです。神の素晴らしさは、ありとあらゆる被造物によって知ることができます。では、神が私達人間一人一人をどんなに深く愛してくださっているのか、ということはどのようにして知ることができるでしょうか?今日は少しだけその事を考えたいと思います。
聖書にはこの様な言葉があります。
「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい』と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。」
人はさまざまな価値観を持つ
今から2千年前のイスラエルは、ローマ帝国の支配を受けていました。ローマはイスラエルに過酷な税を課していたのです。その税を徴収する仕事をするために、ユダヤ人の中から集められた人のことを「取税人」と言いました。この仕事は、とても実入りが良い仕事でした。が、同時に同胞ユダヤ人からは最も蔑まれ、嫌われた職業でもあったのです。この仕事は世襲ではありません、自分から進んで希望した者のみが付くことができた仕事でした。つまりこの取税人になる人の価値観は一様に「世の中お金だ」というものだったと思います。確かに、お金は必要なものですよね。でもそれが自分の中で第一の価値観になることは、その人にとって決して幸せなことではないように思います。なぜなら、幸せや喜びは元々目に見える尺度で測りきれるものではありません。それを、目に見える物質の、量や多さによって決めようとすることに無理があります。お金があれば、美味しい食事は食べれますし、きれいな服も着ることができます。立派な家にも住めます。でも、その中でその人の心が、満たされていなければ、それらのものはただ虚しいだけのものです。
心の平安はどこから来るか
さてここに取税人マタイという人がいます。彼も間違いなく、「お金があれば幸せになれる」と考えていた人間の一人でした。彼は、この仕事に就いて、それなりにお金を得たでしょうし、贅沢な生活もできるようになったのではないかと思います。しかし、それらのものを手にした時、彼の心は、以前想像していた様な満足感を得ることができたのかと言えば、そうではなかったようです。彼の心には、なんとも言い難い虚しさがあったのだと思います。満たされていなかったんですね。お金によって彼の外側は満たすことはできました。でも、彼の心を内側を満たすことは出来なかったんです。人間はその事を忘れがちです。肉体が満たされることで心が満たされると考えます。逆です。心が満たされるからこそ、肉体も満足を得ることができるんですね。
人の心を見ておられるあわれみの神
イエスは収税所に座っていたマタイという人をご覧になって、とあります。私達は人を外見で見、肩書きで評価し、服装や態度で判断します。しかし、神であるイエスはその人の「心」を見られます。その心が悲しんでいないのか、苦しみを抱えていないのか、寂しさに震えていないのか、心が傷つき、血を流していないか、叫び声をあげているのではないか…。それをジッとご覧になります。マタイという人物は、周囲の人々には嫌われていました。誰からも顧みられませんでした。必要ともされませんでした。むしろ「いなくなればいい」と思われていたほどの人物だったのです。外見はどれだけ、強がっていても彼の心は痛んでいたはずです。イエスは、そのマタイの心をジッと見、近づいて行かれたのです。なぜでしょうか?彼の心の傷をほっておくことができなかったんですね。 次のようなイエスの言葉が記されています。
「医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。」
確かに医者を必要とするのは病人です。しかし真の医者は、病人を見てほっておくことができないんですね。イエスは、私達の心を見て、放置できない方なのです。ですからイエスはマタイに近づかれました。そして「わたしについて来なさい」と言われたのです。聖書の語る神は全知全能の方です。この宇宙を創造され、地球を造り、その中のすべての命をお造りになり、私達人間を創造された方です。私たちはこの「神」が存在する事を知ったとしても、その神が本当にこんなちっぽけな私を顧み、愛してくださるのだろうか、そのことがなかなかわからなかったりします。しかし、イエスがどのように私たち人間に接し、取り扱ってくださったのかを聖書から見ると、その答えがわかります。
今、マタイという人物に近づかれたとお話しました。それは彼の心が、叫んでいたからです。だからそれをイエスはほっておかれなかった。あなたの心は傷ついておられませんでしょうか?「死」を恐れていませんか?未来に「不安」を抱いていませんか?孤独で寂しい思いをしていないでしょうか?自分の情なさに失望していませんか?もし、あなたの心に痛みがあるなら、傷があるなら、今イエスはあなたのその心をジッと見つめておられるのです。そしてこう言われます。「わたしについて来なさい」と。
イエスはこのマタイに近づかれたように、苦しむ人、悲しむ人、絶望する人、立ち上がれない人、蔑まれている人のもとを訪ねられます。そして、その一人一人を愛と慈しみによって立ち上がらせてくださったのです。イエスは、今あなたの心を見、あなたを深く愛しておられます。「私についてきなさい。」というこの方の呼びかけに今日、応じられませんか?お勧めしたいと思います。