新約聖書
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
(第一ヨハネ4:9)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.641 2012年7月8日

「キリストの到来と神の愛」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は先日、友人から、東京スカイツリークッキーというお菓子をいただきました。東京スカイツリーというのは、5月にオープンしたテレビ塔です。高さ634メートルというのは、電波塔としては、世界一だそうです。どうして、こんなに高い塔を建てたんでしょう。東京の都心には200メートル級の超高層ビルがひしめいているからなんです。こういうビルによって、電波障害が起きないようにするために、600メートルクラスの塔が必要だっていうんですね。そしてこの塔に登るために全国から、お客さんが殺到しているんですね。いやぁ、人間ってより高いもの、よりそびえたつもの、より力強いものにあこがれるんですね。しかし今日はより低く、より小さく、より弱くなるためにこの世に来られた方を紹介したいのです。その方は、イエス・キリストという方です。


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 キリストはいったい何のためにこの世に来られたのでしょう。聖書はこう語っています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」

 三つのポイントでキリストがこの世に来られた理由をお伝えいたしましょう。
 第一に目に見えない神の御人格を目に見える形で示すためです。
 ある時から我が家のリビングに飾られることになった絵があります。これは息子が幼稚園の時に描いた作品です。それはメガネをかけた卵が踊っている絵なんですね。どうして、卵がメガネをかけているのと聞くと、卵と違うよ、お父さんだよ、と言うんですね。よく見ると、「父の日おめでとう」と書いてありました。しかし、その絵は息子が心を込めて描いてくれんたんですが、実際の私と少しも似てないのです。あえて言えばメガネをかけている点だけが似ているんですね。しかし、幼い息子には父を正確に描くことは無理だったのです。彼は私を愛しているし、私について彼なりの理解を持っていましたが、それは本当の私のごく一面にしか過ぎないのです。
 古今東西、多くの宗教家が神とはこんな方だと言って、いろいろ紹介してきました。しかし、それは人間の側からの推測にしか過ぎないのです。神のごく一面をしかも、不完全な理解の仕方で、しかも不十分な表現で語っているのに過ぎないのです。幼い子供が、父親のことを卵のようにしか描けないように、どんなに賢い人間も、神を正確に示すことはできないのです。神を神として過不足なく、完全に表すことができるのは神だけなのです。そこで、神はご自分と全く等しい一人子の神を人間の姿として、この世に生まれさせてくださったのです。この方をイエス・キリストというのです。キリストは見えない神の御本性を表すために来られた、人となった神なのです。

無限の神の愛を表したキリスト

 第二に、キリストは神の愛を示すためにこの世に生まれてくださったというのです。
 私は四月の末に大阪市内のとある病院に手術のために入院しました。いよいよ退院の前日になったとき、同じ集会のクリスチャンが見舞いに来てくれたんです。ロビーで私を見るなり、他の見舞客の皆さんの目も気にせず、ボロボロボロボロと大粒の涙を流し流して、高原兄弟回復してよかったと言ってくださいました。実は私の受けた手術は命に別状のあるようなもんではありません。しかしそうであるからこそ、彼女の泣く理由を考え、胸が熱くなったのです。実は彼女の御主人は、一年前、私が入院していたその病院で亡くなられたのです。短い闘病生活でしたが、彼女は毎日毎日仕事の帰りにこの病院に通って見舞っておられたのです。しかし、癌が発見された時には、すでに手遅れで手術もすることができなかったのでした。毎日着実に弱っていく夫を見舞ったその病院は、彼女にとって、決して良い思い出の場所ではなかったのです。駅から病院までの道のりを歩くだけで、あの辛かった日々のことが鮮明によみがえってくるのです。その病院に足を踏み入れるということは人生で一番辛かったことを追体験することでした。できれば、近づくことすらしたくはなかったでしょう。しかし、彼女は私を見舞うために、あえてやって来てくれたのです。ただ来てくれたという一点において私は愛を感じました。自分にとって痛ましいことと引き換えにそばに近づいて励まそうとしてくださった言葉が私はキリストのしてくださったことを連想せずにはおれませんでした。
 神に反逆する世界に身を置くということは、一人子の神キリストにとって決して生易しいことではなかったのです。そこに身を投ずるなら、反対を受け、罵られ、嘲られ、最後は十字架に貼り付け処刑になることもわかっていました。この世はキリストにとってリラックスできる別荘地などではなく、憎しみ渦巻く修羅場なのです。それでもこの方が来てくださったのは人間を励まし、愛を示し、受け入れるためだったのです。愛を示すためにこそ、キリストはこの世に生まれてくださったのだと、聖書は語るのです。

永遠のいのちをもたらす人類の救い主

 第三に、この方は私たちに命を得させるために神が遣わした救い主なのだというのです。
 随分昔私は友人たちといっしょに海外旅行に行きました。その中の一人にちょっと、閉所恐怖症の友人がいたんですね。私がそれに気付いたのは、相部屋になったホテルの部屋でドアを少し開けたままにするのを見たからです。なんと彼はバス・トイレのドアですら、少し開けておくんです。寝るときも真っ暗の状態ではだめで、明るい照明のもとで休むことになったのでした。閉じ込められているという感覚になると、心理的に酸欠状態になるっていうんですね。閉じ込めに対して、逃れたい。脱出したいという欲求がとてもとても強い人でした。しかし私はひとつ学んだのです。私たちもこの閉じ込めに対しては、もっと脱出の意欲を持ってよいのではないかと思ったんです。というのは、人間は誰しも死というものに閉じ込められた空間で生きているように思うからです。

すべての人に提供されている神の救い

 昔、アメリカにハリー・フーディーニという脱獄の天才がいました。彼は、どんな頑丈な、また複雑な鍵でも難なく開くことができる特殊技能の持ち主であったのです。ある取調室でのことです。取調官がちょっと席を立ったその隙をついて彼は部屋の鍵に針金を突っ込んでまわし始めたのです。ところが、いつもだったらすぐに開くはずなのにその時には全く歯が立ちません。一分たち、三分たち、五分たって、とうとう根負けした彼は、初めて負けた、と呟いてドアにもたれたその瞬間扉が開いたのです。なんとその扉ははじめっから鍵がかかっていなっかたのです。彼は言いました。既に開いているものはこれ以上開くことはできない。これは深い真理だと思います。救いの扉は既に開いているのです。キリストはあなたに命を得させるために救いの扉を開いておられるのです。後はその扉をくぐるだけで良いのです。
 どうぞ、あなたに永遠の命を提供してくださる方、あなたの死の問題の根本解決なさったこのイエスキリストを自分の救い主として信じてください。心から、お勧めしたいと思います。

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