新約聖書
「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」
(マタイ9:12-13)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.640 2012年7月1日

「罪と死を撃破する救い主」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は先日、胆嚢(たんのう)の手術のために五日間入院しました。病院で生活することで一つ発見したことがあります。それは、一般社会と病院の中では尊重される人が正反対であるということです。一般社会で重んじられる人は、役に立つ人、能力を発揮できる人、強くて元気でタフな人です。しかし病院で重んじられる人は、役に立とうにも病気で動けない人です。弱ければ弱いほど、また病状が重ければ重いほど、看護はいよいよ手厚くなるのです。そして元気になればなるほど、早く出て行ってくださいと言われるのです。ある時、キリストはおっしゃいました。


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「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

人間の罪に対する神の思い

 ここでキリストは、罪人を看護の必要な病人になぞらえて説明なさいました。神様の目には、罪人は誰よりも優先的に助けずにはおれない者なのだ、とおっしゃるのです。ところで、罪って何なんでしょう。今日は三つのポイントで考えます。
 第一に、神を神として認めないことなのです。
 私は三年前に約二週間カナダに行きました。宿泊したのは友人が紹介してくれた民家です。ところがある日のこと、扉を開けて家に入るとなんとなく雰囲気がいつもと違うんですね。家の主人は安楽椅子に座ってテレビを見ていました。私は「アイムホーム(ただいま)!」と言ってそのままキッチンに行き、冷蔵庫から冷えたコーラを取り出してグイッと飲んだのです。いつでもそうしてくださいと言われていたからです。ところがその様子を見たホストはかすれた声で私に言ったんです。"Who are you?"…あんた誰や、と言うんですね。なんと、家まで私を送ってくれたドライバーは、一軒家を間違えて私を降ろしたんです。私はまったく見知らぬ人の家に入り込んで勝手に冷蔵庫からコーラをぐい飲みしていたのです!いや、ホームステイしたのがカナダでよかったですね。もし場所が場所だったら銃で撃たれていたかもしれません。私はすぐにその家のオーナーに非礼を詫び、事情を分かってもらいました。なぜなら私のしたことは家宅不法侵入であったからです。これは立派な犯罪ですね。知らずにしたとはいえ、人の家に勝手に入り込み、まるで自分の持ち家のように我がもの顔に振る舞い、自分の欲求を満たしたんですから。

聖書が語る罪の本質とは

 もしあなたが逆の立場で、見知らぬ男が勝手に冷蔵庫を開けて飲み食いしているのを見たらきっと警察に連絡すると思います。この人のやっていることは不当なことだ!と思うのは当然ですね。それと同じように、この世界の本当のオーナーである神を無視しながら、この世界の空気や水やエネルギーを自分の生存のため、欲望のために使い放題に浪費している人間は、礼儀をわきまえない不法侵入者の振る舞いをしているのと同じなのです。そしてオーナーの所有物を使って生きていながらオーナーをオーナーとして認めない態度を、聖書は罪と語っているのです。

本来のあり方から逸脱した人間

 第二に、罪とは「的はずれ」と言う意味を持っているのです。
 この世界の本当の所有者を無視することは、世界の存在目的も人間の存在目的も見失うことになってしまうのです。
 とある企業の部長さんの話です。ゴルフの最中かかってきた携帯電話に出ると、とんでもない悪い知らせでありました。彼が担当していた会社が倒産し、五千万円の不渡りを出したと言うのです。今すぐ回収に走ってもおそらく取り戻せるのは5%が精一杯です。彼はどん底に落ち込んでしまうんです。なんてひどい失敗をしてしまったんだろう。会社の命運をかけて取り組んでいたのに、なんというひどい失敗をしてしまったのか。もう会社にも顔向けができない、辞めるしかない、家のローンや教育費があるのに、これからいったいどうしたものか……悩みに悩んで相談した相手が、クリスチャンの弁護士だったのです。この弁護士はアドバイスをしました。「あなたは今、自分のした失敗だけを見つめて打ちのめされていますが、どうしてそもそもその年齢で部長に抜擢されたんですか。どうして社長はその会社との取引にゴーサインを出したんですか」すると彼は言いました。「実はその会社にはわれわれが欲しくてたまらない事業部門があるんです。それで取引をしたんです」「じゃあその会社を丸ごと買い取ってから、目玉事業だけを残して後は整理したらいいんじゃないですか」すると彼は目をらんらんと輝かせながら、「そうか!その手があったか!」と早速社長に直談判したんです。「社長、五千万焦げ付きました。しかし、銀行から五億円融資してもらったら、あの看板事業をわが社のものにできます」こうしてこのプロジェクトは見事に大成功を収めたと言うのです。
 サラリーマンにとって一番の成功は、個人の成績ではありません。オーナーのビジョンを実現すると言うことなのです。この大きな目的からずれていたら、個人的に満足していてもナンセンスです。しかし大きな目的にかなっていることであるなら、個人的なしくじりは大した問題ではないのです。人生の成功・失敗は個人の実感で決まるものではありません。この世界のオーナー、またあなた自身のオーナーである創造主の目的にかなった生き方をするかどうか、ここにかかっているのです。この神の目的からずれた生き方のことを、聖書は罪と語るのです。

罪がもたらす死とその解決策

 第三に、罪とは死の根本原因であるということです。
キリストが罪人を病人にたとえられたのは、病人の最終的結末が死に結びついているからです。死は、命のルーツである神から離れた結果、人間の中に入り込んだものなのです。
 ところで今から二千年前、まだインターネットもフェイスブックもなかったような時代、イエス・キリストはたった三年間で全イスラエルの人々の知る人となったのです。多くの人々がこのイエスキリストの姿を一目見たい、その言葉を一言聞きたい、そしてイエス・キリストにワンタッチでいいから触りたい、と思って殺到したんです。どうして短期間に人々がイエスの元に駆けつけるように集まってきたんでしょう。ズバリ、イエスが奇跡を行ったからです。イエス・キリストは文字通り難病専門の医者のごとく活動なさいました。彼によって、耳が聞こえなかった人が聞こえるようになり、見えない人の目が見えるようになり、歩けない人の足が歩きだし、そして死人ですら再び生きたのです。人々がイエスに熱狂し、その噂がまたたく間に全国に広がったのは当然のことでありました。しかし、聞こえるようになった人も、やがて死にました。見えるようになった人も再び見えなくなって、やがて死にました。歩けるようになった人も何十年後かにはやがて寝たきりになり、亡くなっていったのです。最後はみな、死んだのです。つまり、イエス・キリストの癒しの奇跡ですらも、人間が抱えている最も根本的な問題の解決にはなり得ないのです。しかしキリストは、十字架の上で私たちの罪を背負って死んでくださった後、三日目に二度と死なない体でよみがえられました。死が、イエスの復活によって克服されたと言うのです。人間が必要とするのは奇跡以上のものです。死を滅ぼす復活こそが人間にとって必要なのです。キリストは、ご自身を信じる全ての人にこの復活の命を与える、救い主なのです。
 どうぞあなたも、このイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心から、お勧めしたいと思います。

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