新約聖書
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」
(マタイ6:28,29)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.638 2012年6月17日

「花蜂蘭から見えてくる神の愛」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は先日、ランの栽培をしている方からとても興味深い話を伺いました。それはハナバチランという花の話です。実はこのハナバチランの花びらの形は、ハナバチのメスが茎にとまっている姿と瓜二つだというんです。それで、オスバチがメスと勘違いして花にくっついて交尾するんですね。ふつうは見て騙されても、触れてみたら間違いに気がつくもんなんですが、オスバチはしばらく騙されたまんまです。というのは、ハナバチランの花びらはメスのハナバチに生えてる産毛まで完全に再現したものだからです。さすがに途中で様子がおかしいと気づくんですが、そのころには体中が花粉まみれになっているんですね。そして次の花に飛んでいくんです。ところで、ハナバチランには二種類の花があります。形は同じなんですが、花のついている向きが上下逆転してるんです。つまりおしべが上でめしべが下という花と、おしべが下でめしべが上という花の二種類なんです。上下逆転の花にとまったハチは、おしべで付いた花粉を必ずめしべに移すようにデザインされているんです。なんてみごとなシステムでしょう。これが果たして偶然の積み重ねでできるでしょうか。

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 さらに驚くべき事が現在わかっています。実はオスバチは何十回も花に騙されてるのに、それでもハナバチランを見るとついふらふらととまってしまうのは、なぜなのか?実はハナバチランはメスが出すフェロモンそっくりの匂いを放出しているということがわかってきたのです。フェロモンというのは、異性を引き付けオスをめろめろにする物質です。このフェロモンを嗅いだオスバチはその魅力の虜になります。そしてついふらふらと花にとまりに行ってしまうんですね。どうしてこんな能力をハナバチランは身につけることができたんでしょう。これは進化では説明できないことなのです。というのは、植物には視覚神経がありませんね。ですからランはハナバチのメスの姿を見たことがないのです。見たことのない生き物の姿にどうして変化していくことができるんでしょう。触ったことがないメスバチの背中の産毛の生え方をどうしてまねることができるんでしょう。嗅覚のない花がオスバチの好きな匂いをどうして知り、また造りだすことができたんでしょう。ハナバチの性質や行動パターンを知り尽くしている方が設計するのでない限り、このように合理的な形をしていることを説明できないのではありませんか。

創造主なる神のなさるわざ

 そもそも進化論では、種子植物が登場するのは三億五千万年前です。ハチなどの飛ぶ昆虫が登場するのは二億五千万前というふうに説明しています。植物が登場してから虫が出てくるまで、一億年待たなきゃなんないです。虫による受粉がなければ種族の維持が限りなく難しい植物は、虫が登場するまでの一億年の間、一体どうやって子孫を維持してきたんでしょう。命は少しずつ変化を積み重ねて今日の姿になったという進化論の説明は、よくよく考えると、つじつまが合わないことだらけなのです。すべての自然界は全体のシステムとして完成された形で登場したという説明の方が、はるかに説得力があるんですね。では、一体誰がこの世界をお造りになったのでしょう。創造主なる神なのです。人間が造った神ではありません。人間をお造りになった神、この宇宙万物をお造りになった方を、聖書は創造主、神と呼ぶのです。

優れた人間に注がれた神の愛

 ある時、キリストは弟子たちに向かって、こう語られました。

「なぜ、着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」

   ソロモンというのは聖書に登場するユダヤ黄金時代の王様です。賢くってセンスがあって、うなるほど金を持っている王様が着てる服はきっと最高の生地、最高のデザイン、最高の仕立てであったことでしょう。しかし、野に咲く雑草の一つ一つの花が持ってるほどではないと言うのです。神は名もない雑草についてですら、最高のデザイン性をもって惜しみなくすばらしい機能をお与えになった方なのです。ましてや草や花よりはるかに優れている人間に対して、神はどれほどすばらしい能力や姿を与えて下さってることでしょう。そうです、神はあなたを愛しておられるのです。

満ちている神の愛のしるし

 私は先日、手術をして退院し、自宅に戻りました。自宅に戻ると私の部屋には布団が敷いてあり、その隣に空気清浄機とマイナスイオン発生器が置かれ、作動していました。病み上がりの父親のために息子たちが部屋を整えていてくれたのです。いや、うれしかったですね。整えられた部屋を見ると、整えてくれた人の親切を知ることができるのです。同じように、整えられた自然界を見ると、そこに住む人間を神が愛して、生かして、支えておられるということがわかるのではありませんか。この自然界の調和は神があなたを愛しておられる証拠の一つなのです。

孤独感に打ちひしがれる人間

  先日、私の住んでるマンションでちょっとした事件がありました。夜中の二時頃のことです。悲鳴が聞こえてきたんですね。しかし私は、どうせうちわ喧嘩のたぐいだろうと思って表には出なかったのです。しかし三十分程すると、部屋の中にいてる私にもはっきりとわかるほど大きな呻き声が聞こえてきたのです。「痛い。つらい。痛い。」って聞こえるのです。ドアを開けてみると、八十歳くらいのおばあさんが転倒してうずくまってるではありませんか。どうやら階段を踏みはずして、身体を床に強く打ちつけたようなのです。彼女はしくしくと泣いてました。痛さに耐え兼ねて泣いていたんでしょうか。いいえ、自分で立てないほどの激痛の中で、悲鳴をあげようが、助けを求めようが、呻き声を出そうが、涙を流そうが、どの扉も三十分間開くことがなかったということを嘆いたのです。彼女はそこで心の底から孤独を感じていたのです。自分が泣こうが、わめこうが、けがをしようが、誰一人真実に私に関心を持ってくれる者はないという孤独に耐え兼ねていたのです。

虚無と滅びの穴からの救い

 神なんかいないという人生観は、こういう人生観だと思うのです。私が個人的にどれほど悩もうが、苦しもうが、のた打ち回ろうが、宇宙全体から見たら意味のないことです。もし宇宙をお造りになった神がいないとするなら、真実な関心を持つ存在がどこにも存在しないというならば、私たちは悩みの只中で心が簡単にへし折れてしまうのではありませんか。そしてあなたはこのような世界観に耐えることがおできになりますか?私にはできません。しかし、聖書ははっきりと語るのです。神は生きておられる。神はおられるのです。あなたの魂の親は生きておられるのです。そしてこの神はあなたを愛のまなざしで見守っている方なのです。そして、神もその愛もわからなくなった人間を、虚無と滅びのどん底から救い出して下さる方なのです。
 どうぞあなたもイエス・キリストを通して、ご自分のルーツに立ち返って下さい。心から、お勧めしたいと思います。

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