「最大の罪、最大の赦し」
私には、若いころにしでかした失敗がいくつかあります。今でも思い出しては心がキリキリと痛みます。高校に入学して半年ほど経ってから、私は卒業した中学の文化祭にOBとして招かれました。母校に行くと半年ぶりに再会する友達の姿がありました。みんな少し見ぬ間に背が高くなり、また女の子たちは大人びて、まぶしかったことを覚えています。そうこうする内に一人の女子が私に声をかけました。「高原君、久しぶりね!」懐かしい顔です。しかしひとつ困ったことがありました。顔は覚えているんですが名前が出てこないんです。ま、そのうち思い出すだろうと思って話し合うんですがさっぱり思い出せません。私は聞きました。「ところで今、何のクラブなの?」「図書部よ」「えっ、運動部じゃないの!図書館でこもってるなんて、なんや暗い青春やなあ」「何言ってるのよ。若いときに本を読まないと成長しないわよ」私は言い返しました。「なんだかちょっと会わないうちにずいぶん上から目線で言うようになったんやなあ。まあええわ、君も元気でがんばれよ!」そのとき彼女はずいぶん怪訝な顔をしていましたが、私は彼女の名前を忘れたまま家に戻ったのです。
そして、卒業アルバムを開いて名前を突き止めようとしたのです。私の通った中学はマンモス校で、1学年12クラスもありました。だから女子の名前で思い出せない人が一人や二人あったって不思議ではありません。それで全クラスの写真をくまなく探したのです。ところが、どのクラスの中にも彼女がいないのです。どうして卒業写真に載っていないんだろうと思いながら何気なく職員写真を見たときに、見つけたのです。彼女の写真を。なんと彼女は生徒ではなく教師だったのです。図書クラブの顧問の先生だったんですね。私はいたたまれない思いになりました。なぜなら、恩師に向かって、暗い青春送ってるなあとか、ずいぶん上から目線でいうようになったなあとか、君も元気でがんばれよ!などと、失礼この上ない言葉と態度で接してしまったからです。上から話していたのは相手ではなく、実にこちらの側だったのです。そしてあのときの先生の怪訝な悲しそうな表情を思い出すと、胸が痛まずにおれないのです。
神に対する最大の侮辱とは
そのときつくづく思ったことがあります。先生に対する最大の侮辱とはなんだろう。それは成績が悪いことではありません。スポーツができないことでもありません。忘れ物することでもありません。先生に対する最大の罪は、先生を先生と認めないことです。私の失礼は世話になった先生を忘れていたことに由来するものです。相手の存在を忘れ、相手を相手にふさわしく認めないこと以上にひどいことはないんですね。人間を人間扱いしないということは人権蹂躙で、それは醜いことです。また親を親として認めないというのは、最大の親不孝だと思います。それと同じように、神に対する最大の罪は神を神として認めないということなのです。神の存在そのものを忘れて生きるということなのです。
罪に陥った人間に対する神の思い
神というあなたの創り主を忘れ、創造主から離れて生きることを、聖書は罪と語るんですね。失礼なことをしてしまったと気づいた私はずいぶん落ち込んだのです。そしてそれに対して友達が慰めてくれました。また励ましてくれました。また笑わせてもくれたのです。しかしどうにも心が晴れなかったことを覚えています。ひどいことをしでかしたと分かった人に必要なのは、慰めでも励ましでもお笑いでもありません。赦しです。「しっかりしなさい、あなたの罪は赦されている」と言う、権威ある赦しの宣言です。神はこの赦しを人間に与えるためにイエス・キリストを遣わしてくださったのです。
聖書の中に、このような言葉が書いてあります。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
創造主からの驚くべきプレゼント
報酬というのは当然支払われるものですね。働いたら当然給料は支払われます。また払われなければなりません。報酬とは必然的にやってくるものなのです。神を神として認めない人生の報酬は、死です。神との断絶はいのちのルーツとの断絶に他ならないからです。それに対して、賜物とはプレゼントのことなんですね。プレゼントは当然もらうべくしてもらえるものではありません。あくまでも厚意によって、ある意味で理由なしにいただくことができるものなのです。神様は神を認めない人間に対して、死という当然の報酬に代えてキリストにある永遠のいのちという思いがけないプレゼントを与えたいと心から望まれた方なのです。
ご自身を喜んで捧げてくださる神
中東で最も古い物語に、お互いに愛し合う二人の兄弟の話があります。ユダヤ人の伝承によると、エルサレムという町が神殿の立つ場所として選ばれたことを説明するものです。
この兄弟はひとつの脱穀場を共有していました。村の穀物を脱穀してその労働の報酬として受け取った穀物を、二人は半分ずつに分け合ったんです。夕方になると二人はそれを袋に詰めてそれぞれ家に持ち帰りました。お兄さんには妻と12人の子供がいました。弟は独り者で妻も子供もいませんでした。ある晩遅く、弟は考えたのです。「兄さんは毎晩僕に穀物の半分を受け取れ、持って行けって言う。でもそれは不公平だ。兄には養わなければならない口が14もあるが、僕は自分の分だけで十分だ」弟は起き上がって自分の蔵の穀物を袋に入れ、兄の蔵に流し込んだのです。翌朝早く、兄は考えました。私が年をとったら世話をしてくれる子供たちが12人もいてる。弟には一人もいない。私が半分取るようにと弟は言うがそれは不公平だ。彼には将来のためのたくわえが必要だ。兄は穀物を袋に入れ弟の蔵に流し込んだのです。ある晩のこと兄と弟のタイミングがずれ、二人は闇夜の中で袋をかついだままぶつかったのです。そしてお互いの声でそれが自分の兄弟だと分かると、感動のあまり二人はしっかりと抱きしめあったのです。それを天からご覧になった神が言われました。「ここに私の神殿が建つ。相手の必要を思って自分を喜んで捧げあった場所であるからだ」何故そのように言われたのでしょう。ユダヤの伝承によると、神こそは人間の必要を思ってご自身を喜んでささげる方だからだと言うのです。
この神殿の建ったエルサレムで今から二千年前、イエス・キリストが十字架にかかって下さいました。それは人間がもっとも必要としている権威ある赦しを与えるためなのです。キリストの犠牲は、人間の犯すありとあらゆる罪を償うことができるからです。
どうぞあなたも、キリストによる罪の赦しと、永遠の命を受け取って下さい。心からお勧めしたいと思います。