「罪を背負った正義の人」
私は大学4年生のときに5週間の教育実習をしました。小学校の教員免許を取るためです。子どもたちと触れあったこの期間は本当にすばらしい時間でした。私は小学5年生を教えたんですが、彼らの中の何人かは自分たちが社会人になるまで毎年年賀状を送ってくれました。そんな充実した教育実習が終わった後、一人の友人がボソッと私に言ったんです。「高原はタフだなあ、あんなに手厳しい注意を先生方から受け続けてよく傷つかないなあ。まるでエスキモーの鞭打ち犬だったもんな」って言うんです。エスキモーの鞭打ち犬って何でしょう。実は、犬ぞりを引っ張る犬の中には一匹ムチを打つための犬が入ってるって言うんです。ムチを打つたびにその犬は悲鳴を上げます。すると他の犬たちはそんな目に遭わないように全力で走るんですね。実習中の私は、学生たちの気持ちを引き締めるために選ばれたムチ打ち実習生だったと彼は言うんです。私はその言葉を聞いて内心びっくりしたのです。というのはそんなふうに思ったことがなかったんですね。もちろん他の学生たちよりも注意を受けることは多かったように思います。しかし私はそれをほんの少しも見せしめとは思ってはいませんでした。いやそれどころか、他の学生よりも飛び抜けて見込まれているのだと思い込んでいたのです。
ところがそれから数ヶ月後、今度は養護学校の教員免許をとるために教育実習に入ったのです。そしてその時には、あの友人から言われたムチ打ち犬という言葉がいつの間にか心の中に居座っていたのです。私は他の学生の犠牲になっている世にもかわいそうな者なんだと思って実習に入ると、実につらいことばかりが目に付くようになったのです。まるで自分が狙い撃ちされているかのような気分になってきたんですね。被害者意識で仕事に取り組んでいると指導教官から何かを教わろうという気持ちがなくなります。それは怒りとなり、恨みとなり、苦々しい思いへと発展していくんです。養護学校での実習機関は小学校の期間よりも一週間短かったんですが、私には何ヶ月も長い期間のように感じたのです。なぜなら、私は教えを受ける身でありながら、いつの間にか自分で自分を傷つける状態へと落ち込んでいたからです。人生を重苦しく、息苦しくする理由のひとつは、誰かを恨んだままでいることです。そしてその恨み・つらみは自分が被害者であるという意識から生まれてくるものです。そしてその被害者としての主張がまっとうなものであればあるほど、恨みや苦さは深刻なものになっていくことが多いんですね。
心に負った大きな傷
私が小学2年生のころ、円谷プロのウルトラマンシリーズが始まりました。毎週のようにウルトラマンが怪獣を退治してくれます。彼は私たちのヒーローでした。番組の次の日の学校での話題はウルトラマン一色でした。そしてクラスに一人、どのようにしてだかこのウルトラマンシリーズのブロマイドを何十枚と持っているA君がいたんです。みんなはそのブロマイド見たさに彼のところへ言ってちやほやするんですね。私はそのA君が好きではありませんでした。しかし私も家来みたいになって見せてもらったもんです。ところが、私の大好きなB君もある時ブロマイドを持つようになったんです。親戚のお兄さんからもらったそのブロマイドは彼の宝物でした。彼は決して見せびらかす人ではありません。黙ってるんです。しかし、私には快く見せてくれたんですね。これでもうA君にへつらう必要はありません。ブロマイドを見たいときにはいつでもB君に頼めばよかったんですから。
ところがある日のこと、大事件が起こりました。A君のブロマイドが数枚なくなったのです。A君は、誰かが取ったに違いない!と大騒ぎしたんです。そのうち誰かの声がしました。B君がブロマイド持ってるのを見た!…いや、それはB君のものです。しかしA君はそんなことは知りません。Bが取ったんだ、Bが泥棒したんだ!と言い張るのです。B君は自分のものだというのですが、元来気の小さい、また気の弱かった彼は、そのままうまく弁護することができないままに泣いて教室を飛び出し、なんと次の週にはよその学校へ転校していたのです。実に気まずい別れでした。
正しいものだけが味わう苦しみ
しかし高校に入学したとき、8年前に別れたあのB君がなんと同じ学校にいたのです。しかしその頃にはずいぶん様子が変わっていました。何か面影が暗いんですね。しばらく付き合ってから彼はポツリと一言こう言ったんです。「俺は今でもあいつを赦してないぞ」「え、あいつって誰?何のこと?」私はすっかり忘れていたのですが、汚名を着せられたB君にとってあの事件は現在形のまま残っていたのです。彼は8年間ずっと恨み続けていたというのです。どうしてB君はそんなにも長い間A君を赦せなかったんでしょう。B君が正しいからです。正しいのに悪者にされたからです。人は正しければ正しいほど、悪者のように扱われることを我慢することができません。赦すことができなくなるのです。
キリストの十字架上での祈り
ところで、人間はどんなに正しいといっても完全に正しい人はないと思います。どんな人にも過ちがあり、失敗があり、間違いを犯すということがあるものです。しかし、この世の中で唯一、完全に正しいと言える方がおられます。それがイエス・キリストという方です。この方は一度も罪を犯したことがなく、心にあざむきがなく、その口に何の偽りもありませんでした。それどころか良いことしかなさらなかった方なのです。そのイエス・キリストが人々の妬みによって十字架処刑されるとき、本来ならば怒りや憤り、呪いがわいて来ても当然のことです。なぜなら、正しい人ほど悪者として扱われることに我慢ならなくなるはずだからです。ところが、キリストはこう祈られたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかわからないのです。」
両手両足を引き裂かれながら、キリストは激痛の中で思わず人間に代わって人間の赦しを神に祈られたのです。私はここに罪人とは決定的に異なる神の子の本質を見るように思うのです。キリストは正しい方なのに正義の論理で私たちを扱うのではなく、恵みの論理で接してくださる救い主なのです。
神の行動原理で生きる
昨年の2月、私の尊敬する老伝道者がガンで亡くなられました。告知されてたった一ヶ月で天国に帰っていかれたのです。その一ヶ月の間に彼がベッドの中で集中的に取り組んだことは私を驚かせました。それは全国の友人たちに赦しを請う手紙を書くことだったからです。若い頃から飛びきり才能あふれたこの人はずいぶん妬まれ、あらぬ噂や、中傷や、横槍を受けてきた人です。しかしその人々を赦しただけではなく、こちら側が赦しを願っていったんです。死を前にして神の視線を実感したとき、彼は神の行動原理を改めて思い返されたんだと思います。神様の自分に対する行動原理は正義と裁きではなく、恵みと赦しだったからです.あなたの罪をキリストにおいて裁くことであなたに完全な赦しを備えた方、それがあなたの造り主です。どうぞあなたも、キリストによる赦しを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。