新約聖書
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21-22)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.618 2012年1月29日

「悔い改めをつくるキリストの赦し」

おはようございます。高原剛一郎です!

 先日、精神科医の和田秀樹さんの書いた「テレビの大罪」という本を読みました。いったいテレビがどんな罪を犯してるって言うんでしょう。具体例の筆頭に彼があげたのは「ウエスト58センチ幻想」です。テレビに出演している女優やタレントの多くはウエスト50センチ台を公表しているそうです。しかし医者として断言できることは、まずありえないことだって言うんです。つまりみんな嘘をついてるって言うんですね。しかし、一般視聴者の女の子たちは真に受けています。そのむちゃくちゃな偽装数値を理想のサイズと思い込んで、死に物狂いのダイエットをしているのです。その結果、彼のクリニックには毎週のように拒食症の女性が運び込まれることになります。摂食障害で命を落とす人は毎年100人。そこまでいかなくても脳や体が壊れていきます。不妊症の原因になります。多くの女性たちに持たなくても良い劣等感を植え付けることになるって言うんですね。

カット

 ところで聖書の中にも、とても実行できないような基準が語られてる箇所があるんです。しかもそれを語られたのはイエス・キリストご自身なのです。こう書いてあるんですね。

「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

イエスが語られた神の基準

 これを聞かれてどう思われますか。人殺しは悪いというのは誰だって同意できることですよね。ところがイエス・キリストは、口で「ばか者!」と言うだけで人殺しと同じだって言うんです。心の中で「死んじまえ!」と腹を立てるだけで、神様の裁きを受けるのだと言われたのです。今まで誰に対しても、ばか者とか、能なしとか、悪い言葉を出したことが一切無いという人が、もしかしたらいらっしゃるかもしれませんね。しかし、苦い思いを心の中ですら思ったことがないという人は恐らくいないのではありませんか。はっきり言って、思ったり言葉で罵ったりするだけで殺人に匹敵するというこの基準は「ウエスト58センチ幻想」に通ずるのではありませんか。あまりにも現実離れした基準ではないかと思うのです。ではキリストはこの厳しすぎる基準をなぜ強い確信を持って語られたのでしょう。私は三つ程理由があると思うのです。

神の愛の表れとしての厳しさ

 第一に、一人の人間の魂の価値を本当に良くご存じであったからです。確かに人間は「ばか者」と言われても仕方のないようなことをしでかします。一時の衝動や欲望におぼれて、実にバカバカしい選択をするものです。キリストは人のしたバカな行為を決して肯定なさってるわけではないんですね。しかしバカな行為と、それをした人をはっきりと分けて考えておられるのです。人は罪ゆえに愚かしい行為をします。しかし、それにもかかわらずその人の存在そのものは神の形に似せて造られた者であって、それをバカだの、能無しなどとののしることはゆるされないと言うのです。誰であってもその人の存在そのものを否定する権威はありません。それは人間の作者にとって我慢ならないことです。したがって神は人が自分自身を見下すことについても喜ばれません。私なんかいなくてもいい人間なんだとか、自分はダメ人間で存在してはならないんだ、などと考えることは人間にはゆるされていないことなのです。ではなぜ人をバカ呼ばわりすることを神は禁じるのでしょう。人間存在をそれほどにまで尊いものとしてご覧になっているからです。この一見厳しすぎる言葉は神の愛から出てくる言葉なのです。

人間が死後行く世界とは

 第二に、裁きの恐ろしさをご存じであるので、ここまで迫力を持って厳しく語られたのです。キリストはどんな罪にも必ず裁きがあるということを断言なさったのです。その裁きはこの世で受ける罰金や、罰則や、懲役や、そんなものではありません。ここで語られている裁きとは「燃えるゲヘナ」のことなのです。「燃えるゲヘナ」って何でしょう。地獄のことです。「火の池」と他の箇所で表現されているところです。人間が罪を持ったまま死んだ後で、最終的に行き着く世界です。神の恵みが何一つない神なき世界です。これは方便で語られたのではありません。罪は必ず裁かれるとおっしゃるのです。こんな話は決して聞いていて愉快では無いですよね。しかし、どうしても知らなければならない情報なのです。なぜなら命にかかわってくる問題だからです。しかも人の永遠を決する問題なんです。そこへ入ってしまうならば二度と出てくることが出来ないからです。キリストは人が誰一人そんな所に行ってほしくないと心から願っていらっしゃる方です。だからこそ正直に包み隠すことなく裁きを語られたのです。

罪の裁きから救われる道

 第三に、キリストはこの罪の究極の裁きから救われる道をお持ちなので、それを明らかにされたのです。いったい必ず裁かれなければならない罪をどのようにして赦していただくことが出来るのでしょうか。罪の無いキリストが、私たちに代わって裁かれることによって赦されるのです。キリストは罪を一度も犯したことのない方です。その口に何の偽りもありませんでした。良いことしかなさらなかったのに、その良いことのためにねたみを買い、「能無し」と呼ばれ、「ばか者」とののしられ、あの十字架に付けられたのです。いくらでも十字架にかからずに済ます道がありましたが、決して十字架から逃れようとはなさいませんでした。このキリストの身代わりの死だけが、私たちの罪の償いとなるということをご存じであったからです。キリストはこの十字架と三日目の復活によって、過去にどんなに深い大きな罪のある人をも赦すことの出来る救いを完成してくださったのです。

神が求めておられる真の悔い改め

 先日、私は一人の才能豊かな若者の証を聞きました。彼女はとある楽器の才能を見込まれて、音楽大学に入学し、オーストリアに留学するほどになりました。やることなすこと何もかもうまく行く彼女は、日本に戻ってからオーケストラの入団テストを受けることになっていたのです。ところがそんな時に、とても難しい大腸の病気にかかったのです。それは現代医学でもどうにもならない病気でした。この病気のために彼女の人生設計は全く変わってしまいました。すでにクリスチャンだった両親は彼女に聖書を差し入れましたが、神と人生に恨みと怒りを燃やす彼女はほとんど読もうとしませんでした。そしてとうとう自殺未遂をはかるのです。病室で気付いた彼女の枕元には聖書がありました。彼女が何気なしに開いた箇所にはこう書いてあったのです。

「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。ー神である主の御告げーだから、悔い改めて、生きよ。」 

 今までは、「生きていたらいいこともあるから生きよ」とか「あなたは大切な人だから死なないで」という言葉ばかりを聞いていましたが、「悔い改めて生きよ」、死ぬ資格や権利が自分にあるという思い上がりを捨てて神の前にへりくだれ、神に聞け、と宣言されているように思った彼女はその場でキリストを救い主として受け入れたのです。悔い改めとは己の分を知って神に帰ることなのです。
 どうぞあなたもイエス・キリストを信じ、この方を主として受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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