新約聖書
「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それな のに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、ま たあなたの前に罪を犯しました。」』」
(ルカ15:17-18)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.617 2012年1月22日

「傷口を見た後はキリストを仰げ」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は先日、ある精神科医の書かれたエッセイを読みとても納得しました。彼によると人生を複雑にする理由は今すぐすべきことを先延ばしにすることにあると言うのです。すべきことを面倒臭がって先延ばしにしていると必ず悪い結果を招くって言うんですね。データによりますと成人した人の20%と大学生の90%は先延ばしの常習者です。今すべきことを後回しにして、ひどい目に遭っているのにそれを変える決心をまた先延ばしにしてしまいます。これは日本だけではないんですね。アメリカでは締め切り直前になって慌てて納税申告書を書く人が多いそうです。そのため数字上のミスで平均5億ドル近い額を余計に払っています。5億ドルと言ったら約400億円なんですよね。

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 この先延ばしが癖になっている人の95%はその習慣を変えたいと思っていますが、それがなかなか出来ません。習慣化してるからです。習慣は無意識的な脳内反応になっています。先送り常習者は自動操縦で飛行機に乗っているパイロットのようなものだって言うんですね。どこかでこの負の連鎖を断ち切りたいもんですね。なぜならそれは人生に大きな損害を与えるからです。

先送りに何一つ益はない

 今日は、思ったことを即実行に移して祝福を受けた人物を紹介したいと思います。その人はキリストのたとえ話に出てくる放蕩息子です。彼は父親が生きている間に父から遺産をふんだくって、家出の果てに財産を放蕩し、飢え死に寸前にまで落ちぶれてしまいます。しかし、どん底に落ちたとき彼は人生のターニングポイントを迎えるんですね。聖書にはこう書いてあります。

「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」』」

人生の方向転換に必要なこと

 どん底に落ちぶれた彼が人生の方向転換に踏み切るためにしたことが二つです。
 第一に、我に帰って自分のしでかした罪と過去の現実と向き合ったということです。このままいったら最後はどうなるのか。究極の結末を考え、それと向き合った時、何もしないでいることは滅びを招くと悟ったんです。このたとえで父親になぞらえられているのは私たちの造り主である神です。神様はあなたを愛し、あなたを養い、あなたに必要なものを黙々と与え続けて来られた方です。この神のもとから家出をして自分勝手な生き方をすることを聖書は罪と語っています。そしてこの罪が人生と世界を混乱させている最大の理由なのです。

人間の傲慢と頑なさ

 今から約80年ほど前、昭和8年に「大阪ゴーストップ事件」というのがありました。この年は満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍部が暴走し太平洋戦争に突き進もうとしていた時代です。大阪天神橋の交差点で陸軍第8連隊の一等兵が赤信号を平然と無視したんです。見とがめた巡査が「待て!」と止めたところ、「貴様、誰を止めるのか!俺は軍人だぞ!」と怒鳴り返し、何と兵士と警察官が殴り合いになったっていうんですね。その喧嘩を聞いた第8連隊は、兵士をいさめるどころか「おまわりごときが軍人に命令するとは何事か!」といきり立ったのです。大阪警察本部も、「信号違反は陸軍だろうと許せん!」と引きません。
 これがとうとう陸軍参謀と警察庁の中央にまで話があがっていきます。面子と面子、権威と権威の衝突で収拾がつかなくなってしまうのです。陸軍は言います、「我々は天皇陛下の軍人である!陛下の軍人をとがめるのは、陛下をとがめるのと同じである!知事も所長も謝りに来ない限り許さんぞ!」と。警察の部長はその言葉に言い返すんですね。「あなたが陛下の軍人なら、われらは陛下の警察だ!」とうとうこの喧嘩は政界トップにまで発展し、陸軍大臣と内務省が大喧嘩になり、どうにもならなくなったんです。一体どうやって解決したと思いますか。四か月後、天皇陛下が陸軍大臣を厳重注意したんですね。すぐに収まりました。小さい権威と小さい権威の対立は絶対的権威の介入によってやっと解消したんです。

後悔ではなく悔い改め

 第二に彼がしたことは父のところに行って謝るということだったのです。ただ後悔しただけではないのです。自分のした罪を悔いたならば、それを父の前に持ち出して赦しを求めに行ったのです。恐らく父の所に行く前に何度も迷ったことでしょう。今さら赦してもらえるなんてあまりにも身勝手です。しかし、そうする以外自分が餓死から逃れる術がなかったのです。彼は思い切って父のところに行き、悔い改めの決心を告白したのです。父は彼を一言も責め立てることなく、非難することなく「よーく返って来た」と言って、何と大宴会を開いて歓迎したというのです。これを語ったキリストの意図がお分かりでしょうか。神は私たちを既に赦してくださっているのです。そして人は赦されるということを知っていて初めて悔い改めることが出来るのです。
 私は以前ハワイで大きなケガをしました。右手の薬指の爪の中にシャープペンシルの芯が奥深く突き刺さってしまったのです。まるで拷問でした。爪の間に針が撃ち込まれたようなものであります。病院へ行った私は即手術となったのですが、指の部分麻酔なのでドクターと会話しながら手術を受けたのです。私はその時の会話を今でもよく覚えているんです。そのドクター、こういうふうに言ったんですね。「まずどの部分まで痛むかよく教えて下さい。それから次には傷口から目を離して私を見ていてください。」私は言われた通りにしました。いくら麻酔で痛くなくても爪をはがす手術をじっと見つめる勇気は無かったからです。明るく朗らかなドクターと会話しながら手術は20分ほどで終わりました。今でも感謝しています。と同時に霊的な教訓をこの体験から学んだように思うのです。
 すべての罪人はまず自分の傷口を見るべきです。そして次にはキリストを見上げるべきなのです。なぜならこの方こそは十字架の上で私の罪を背負って罪の永久処分を成し遂げ、死後三日目に復活なさった方だからです。罪が分かったら罪から目を離してこの救い主を見上げるのです。そうすれば救われます。どうぞあなたもキリストを見上げて救われてください。心からお勧めしたと思います。

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