旧約聖書
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」
(詩篇23:1-2)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.616 2012年1月15日

「主は私の羊飼い」

おはようございます。尼川匡志です!

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」

 旧約聖書の中にある詩篇23篇の中の1節です。とても有名な詩ですから皆さんも一度ぐらいはお聞きになったことがあるかもしれませんね。ここで羊と書かれているのは私たち人間のことです。羊飼いとは全てのものをお造りになった創造主、神のことを指しています。この詩篇の作者は言います。「私は、乏しいことがありません。」と。彼は完全に満足して自分の人生を歩んでいると言えるんです。

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 私たちは誰もが幸せになることを求めています。どのようになることが幸せであるのかは、それぞれ個人の価値観や捉え方によって異なることはあると思います。しかし一つ言えることがあります。人が幸せを感じるかどうかは、その人が満足しているかどうかにかかっているということです。もし満足していなければ誰も幸せと思いません。
 さてこの詩篇の作者は満たされていました。だから乏しいことはありません。と告白することが出来たんです。ではこの人は物質的に豊かであったから乏しいことがないと言ったのでしょうか。そうではないのです。彼が満足を感じたのは、今日あっても明日無くなってしまうようなものによるのではありませんでした。心の内のことなんです。いくら物質的に豊かであっても心の中に虚しい空洞を抱えていれば決して幸せと思うことは出来ません。でもいろんなものが欠けていたとしても、その人の心の内が完全に満たされているなら、その人は乏しいことはなく幸せを味わうことが出来るんですね。「物質的なものは必要無い、大切なのは精神だ。」そんなことを言うつもりはありません。言いたいのは、たとえ病気がちで貧しくても満足して生きて行く人もいれば、逆に健康でたくさんの資産を持っていてそれでも不満や不平で心がいっぱいになっている人もいるということなのです。この両者の違いは一体何なんでしょうか。

豊かな人生を味わう秘訣

 この詩篇の作者は「私には乏しいことがありません。」と言い切ることが出来る人生を歩んでいました。その理由は一つです。主が私の羊飼い、私の導き手でだからです。この人はどんなに困難に見える道でも、間違い無く最終的に自分は素晴らしい場所に導いてくださる方をその人生の中で味わっていたんですね。そしてその導き手なる方は、鞭を手に怒鳴りながら羊を強引に引っ張って行くような方ではありません。人はある時疲れ、悲しみ、落ち込んで一歩も歩むことが出来ないときがあります。その時に、この方はそっと傍らで慰め、励まし、勇気を与え、支えてくださる方なのです。だからこの詩篇の作者は、どんな時でも乏しいと思うことがなく、満たされていたんですね。私たち人間は正しく導いてくれる存在を持つ必要があると思います。そして、この導くということの中には二つの重要な要素が含まれています。一つは指導、リードですね。その人が分かっていない未来を指し示しながら進むべき安全な道を示していくということです。そしてもう一つは支援、サポートです。これはそっと傍らにいて共感することです。どのような時もその人の味方になると言うことですね。子育てとはまさにこの指導と支援によって愛する子供を育んでいくことのように思います。しかしこれが実に難しいんです。

頭でわかっていても実行できない人間の弱さ

 私たちは往々にしてこの二つのことを逆に行ってしまいます。子供たちを叱り指導しなければならない場面で、「子供の自主性に任せます」と傍観してみたり、本当なら一切口出しせずに、静かに寄り添いながら、支えなければならない場面で、「こうしなさい、ああしなさい」と余計な口出しをしてしまうことがあります。そんな経験はないでしょうか。残念ながら私にはたくさん思い当たることがあります。これは私たち人間にとってとても難しいことなんです。なぜなら人間には残念ながら未来を見ることが出来ないからですね。事実、私たちは自分の10分後何が起こっているのかが分からないのです。また、心傷つき弱っている人や、落ち込んでいる人にそっと寄り添うこともなかなか出来るもんではありません。他人の痛みを理解することが出来ないからですね。私たち人間には人を導くのに限界があります。

私たちの乏しさを覆う神の豊かさ

 先ほどの詩篇の中に見た羊飼いとは、この二つのことを完璧に行ってくださる存在なのです。それが聖書が語る私たちの導き手、羊飼いなる神なのですね。神は私たちをこの世界に生み出してくださいました。そして私たちがこの地上での人生を豊かで素晴らしいものとして歩んで行くことを心から望んでくださっています。この羊飼いである方に出会い、この方に導かれながら歩んでいた故に、この詩篇の作者は「私には乏しいことがない」と告白出来たんです。聖書の他の箇所にこのような一節があります。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

 この言葉を語られたのはイエス・キリストです。イエスは自らのことを「良い牧者」とおっしゃいました。そしてその「羊」とは全ての人間、全人類を指しています。あなたであり、私のことなのです。たった一人の人間を導き、寄り添うだけでも大変なことです。しかしこの方は全人類の羊飼いだとおっしゃっているのです。しかも完全な羊飼いです。イエスとはただの大ぼら吹きなのでしょうか。いいえ、絶対そんなことはありません。この方に出会い導かれることによって、この2千年間どれだけ多くの人がその人生を豊かに変えられてきたことでしょうか。どれだけ多くの人たちが、「私は乏しいことがありません」と告白してきたことでしょうか。私もその一人です。この方はあなたの人生を導こうとされています。

私たちを導く完全な羊飼いイエス

 2012年は始まったばかりです。しかし去年一年がそうであったように、今年一年もあっという間に過ぎ去っていきます。私たちは言いようによっては、ものすごいスピードで死に向かって突き進んでいるということが出来ると思います。さてイエスは言われました。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。この言葉は何を意味しているのでしょうか。私たちの人生がどれほど成功に満ちたとしても、その最後が死という暗闇であるなら、私には乏しいことが無いと言い切れるでしょうか。
 イエスはその私たちをさらに幸いな場所へと導こうとされているのです。それはどこでしょうか。天国です。神と共に生きる永遠の世界です。そこまで私たち弱くて迷える羊を導いて行ってくださる方こそ良い牧者、完全な羊飼いなのです。そのことをなすために、イエスは十字架に架かり、死んで三日後に復活し、死を打ち滅ぼされたのです。羊を緑の牧場に付させ、いこいの水のほとりに伴って行くために、ご自分の命を捨ててくださったのです。この方を信じ、この方に従う人生に入るなら、あなたも乏しいことが無くなるんですね。ぜひイエスをあなたの羊飼い、導き手として受け入れてください。

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