旧約聖書
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
(イザヤ書9:6)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.611 2011年12月11日

「クリスマス~預言されていた力ある神」

おはようございます。高原剛一郎です!

 先日、海外ニュースでアメリカの授業参観の様子が紹介されていました。参観の前日の授業で先生は小学二年生たちに磁石とその性質について説明していました。それで参観当日に生徒たちに質問したんですね。「さあ問題です。私の名前はアルファベットの“M”から始まる6文字です。私は物を拾い上げます。さて私は誰でしょう。」もちろん答えは「マグネット(magnet)」ですね。ところがクラス中の生徒はその答えに驚いているではありませんか。何とほとんどの子供たちはまだ「お母さん(mother)」と思ってたっていうんですね。確かに“M”の文字から始まる「お母さん」は物を拾い上げてくれる人です。自分たちが散らかした物、落とした物、頼み事の一つ一つを拾い上げて面倒を見てくれる人ですね。お母さんこそは究極のセーフティーネットです。この頼りになる人とつながってるからこそ子供たちは健全に成長していくことが出来るんですね。

カット

 ところで大人になった私たちは、私の失敗、私のしくじり、私の罪のすべてを赦し、罪に落ちた私を拾い上げ、私の存在をしっかり支えてくださる方を持っているでしょうか。もし持っていないなら精神的な孤児だと思うのです。今から六年ほど前、朝日新聞に「エイジ」という新聞小説が連載されていました。エイジは東京郊外のニュータウンに住む中学二年の男の子です。その夏、町には連続通り魔事件が発生し犯行は次第にエスカレートしていきます。ついに捕まった犯人はなんとエイジの同級生だったんですね。エイジはこの日を境に切れるということについて深く考えるようになるんです。この本の中で切れるとは、堪忍袋の緒がプツンと切れるというんじゃない、自分と相手とのつながりが煩わしくなって、断ち切ってしまうということが切れるということじゃないかと考えるシーンが出てきます。自分が誰とも関係なくなったら誰に対しても平気でひどいことが出来るようになります。しかし一人でも自分のために心から泣いてくれる人がいたら、その人を泣かせたくないためにバカなことはしなくなるものです。
 人はどうして簡単に裏切ったり、傷つけたり、嘘をついたり、おとしめたり、そして暴力をふるったりするんでしょう。人間を心から愛し尊い存在に造った方との関係を断ち切っているからではないでしょうか。この神との関係を断ち切っていることを聖書は「罪」と呼んでいます。そしてこの罪人との関係を再生するために神は人となってこの世に来てくださいました。この方こそはイエス・キリストなのです。聖書にはこのキリスト誕生の七百年前に人類歴史の只中に降りてくる救い主の預言が書いてあるんです。 

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。』」

創造主が約束された救い主イエス・キリスト

 今日、先週に引き続きキリストに与えられた第二の称号、「力ある神」ということについて考えたいと思います。
 神と言ったとき、私たち日本人は、つい人間が作った神々のことを想像してしまいますね。人間の宗教心がこしらえた神々を神と呼んできたからです。しかし、ヘブライ語では人間が作った偶像のこと、偶像の神々のことを「エリール」と呼んだんです。「エリール」というのは、無いとか、虚無とか、虚しいっていう意味があるんですね。人間が作った神々は人間を助けることはできません。人間の空想の産物である神にすがるのは虚しいことです。元々実在していないからです。ですから偶像のことをエリール、虚しいって呼んだんですね。しかし聖書が語る本物の神様は人間が作った神ではありません。人間を造った神なんです。人間だけではありません。この宇宙も、地球も、自然界のすべて、命そのものを造った神なのです。この偉大なる作者が一人の男の子としてこの世に来ると言うのです。何のためでしょう。

人の姿をとられてこの世界に来られた理由

 第一に人類に罪からの救いをもたらすためです。スピルバーグの監督の映画作品の一つに「プライベート・ライアン」というのがあります。ライアンは4人兄弟の末っ子です。そして上3人は皆戦死してしまいます。お母さんの心痛を考えた陸軍長官はライアンを戦場から戻すように命じます。ところがその当時ライアンはドイツが占領するフランスの戦場にいたんです。彼の周りには完全にドイツ軍が取り囲んでいます。このライアンを戦場から呼び戻すために最強のレンジャーチームが8人選抜されるんです。彼らはたった一人のライアン一等兵を救出するために、次々と命を落としていきます。彼が生きて戻るためにほとんど全員が死んでしまうんですね。晩年になったライアンは、子供たち、孫たちと一緒にレンジャーチームの墓の前に行くのです。そして涙ながらにこう言うんです。「私はあの犠牲にふさわしい人生を生きて来ただろうか。あの人たちの命が失われるのに値する生き方が出来てきただろうか。」傍らで年老いた妻が「ええ、そうよ」と優しく労わるシーンです。私はこの場面にむしょうに感動するんです。なぜなら私のために一度人となった力ある神、イエス・キリストが十字架の上で命を捨ててくださったからです。私は、キリストが命を捨ててまで救い出すだけの生き方を、今までしてきたんだろうかと問わずにおれません。そしてキリストはあなたを罪の刑罰から救うために死んでくださった方、死んでよみがえってくださった方なのです。

今も生きて働く力ある神

 第二にキリストは神の力を示すためにこの世に来られ、また今なお生きて働いておられる方なんです。今から百数十年前、イギリスにジョージ・ミューラーというクリスチャンがいました。彼が生きたころのイギリスは、神なんか必要ないという風潮で満ちていました。ミューラーは神の御力を示すために祈りと信仰だけで孤児院を経営するようになりました。初め30人でスタートした孤児院は、やがて100人、300人、3000人、1万人と拡大していきましたが、ただの一度も寄付を募ったり、スポンサー探しをすることはなかったのです。ただ神に祈り、信仰によって孤児たちを養っていったんです。ある嵐の朝、孤児院には400人の子供たちに出すパンが一切れもありませんでした。ミューラーは全員の子供たちを食堂に集めて食前の感謝の祈りを捧げました。その祈りが終わる前に大きな馬車が孤児院の前に到着したのです。そこには有り余るほどのパンとミルクがありました。それはパン工場の労働者達のピクニック用のお弁当だったのです。大雨のためにピクニックが中止になったので、どうぞ引き取って欲しいと言って運ばれてきたのでした。このような祈りの答えは五万回にも上ったのです。彼は、神は今も生きて働く力ある神なのだということを証したんですね。

約束したことを実行する愛の神

 第三にあなたに身を持って愛を示すためにキリストは来られたのです。キリストはこの世に生まれてくださったのはなぜでしょう。それは神が実行家であるからです。神は愛についての思想家、哲学者、夢想家ではありません。約束したことを実行する神です。愛を実行する神なのです。
 どうぞあなたの心にキリストを受け入れ本物のクリスマスを経験なさってください。心からお勧めしたいと思います。

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