新約聖書
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
(ヘブル人への手紙2:14~15)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.608 2011年11月20日

「死の意味を変えたキリスト」

おはようございます。高原剛一郎です!

 先日、鍼の先生がおっしゃっていました。人間はおっかないものやストレスに直面すると、「逃げるか闘うか反応」っていうのを起こすって言うんです。それは命からがら全速力で逃げるか、命がけで立ち向かって行くのかを決める反応です。まあ、どっちにしても興奮状態なんですね。そしてこの「逃げるか闘うか反応」というのは、人間に集中力を与えてくれるので決して悪いものじゃないって言うんですね。むしろこれがないといつまでもダラダラしたままで何にも完成しないって言うんです。しかし、ずーっとこの戦闘モードを続けていると体がもたないんですね。それで時々緩めてやる必要があります。普通はお風呂に入ったりして休養すれば緩まるのですが、常習的にストレスにさらされている人は睡眠ぐらいでは緩まりません。そこで鍼を打つって言うんですね。私も打ってもらいましたが、今までの疲れがどーっと出て数時間起き上がれなくなりました。

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 ところで人間が直面する恐ろしいものの中で最も厄介なものとはなんでしょう。それは死の恐怖だと思うんです。これだけはどんな鍼も、どんなサプリメントでも解決することはできません。この死の問題を解決できる方は唯一イエス・キリストだけなのです。聖書はこう語っています。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

人はなぜ死を恐れるのか

   キリストは私たちを死の恐怖から解放するために死んでよみがえってくださった方なんだって言うんですね。ところで人はなぜ死を恐れるんでしょう。私は三つの理由があると思うんです。
 第一に、死はあらゆる人間の繋がりを断ち切ってしまうもののように見えるからです。そして人間にはこれは耐え難いことなんですね。なぜなら人の幸せは、他の人との愛の関係の中にあるからです。俵万智さんの現代短歌に、『「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ』という作品があります。寒さが厳しくて、「ああ、今日はかじかむなあ、寒いねえ」と言った時に、そんな自分に共感して、「ほんと寒いねえ」と気持ちを分かち合える人がいたら、寒い経験ですらもホカホカと温かくなる、そのような思い出になりますね。しかし暖房がよく効いた快適な豪華な部屋の中にいても、心通わせる友達が一人もいない人は寂しいですね。

人間に共感し、慰めを与えることができる方

 私はサラリーマン時代、毎月一人で九州全県を回る営業活動をしていました。九州には各地においしい名物がたくさんあります。でもホテルで一人御馳走をつついていても味気無いですねえ。ある日たまらなくなって大阪の自宅に電話を入れました。その時生まれてまだ間もない赤ん坊の娘に受話器を当ててもらったんです。電話越しに「スースー」呼吸する音だけが聞こえてきたのですが、それだけなのに力が湧いてきたことを思い出すのです。たとえ相手がどんなに小さくても、大切な存在と繋がっていること、そのことを確認できるということは、その人の生きる力になるんですね。ところが死というのは繋がりのあるすべての人との関係を断ち切ってしまうんです。死を目の前にして人は本当に孤独です。この世で持っていた全部のものを手放さなければならないからです。この恐怖を分かち合える方とはいったい誰でしょう。イエス・キリストです。なぜならキリストも一度肉体を持って十字架に架かり、持っていた何もかもをも奪われたあげく、人からも、弟子からも、神からも、見捨てられる経験をなさったからです。死というものを自ら経験したキリストは、これから死を経験する人間に心から共感し慰めを与えることが出来ます。なぜならキリストは死んで後三日目に復活し、今生きてあなたの傍らにいる方だからです。

永遠のいのちを受け取るため生かされた

 死を恐れる第二の理由は、死がこちらの事情を一切考慮せずに一方的に襲いかかって来るものであるからです。私は学生時代新聞配達のアルバイトをしていました。自転車の前かごと後ろの荷台に大量の新聞を積んで配るんですね。これは慣れてないと新聞の重みでハンドルがブルブル震え出すんです。ある日のこと、新聞を満載した自転車のブレーキが運転中に切れてしまったことがありました。片手に新聞を持っていた私はブレーキの利かないままガラス戸の家に突っ込んでいったんですね。恐ろしい経験でした。一体何が恐ろしかったでしょう。コントロールできない物に支配されるという恐怖です。ところでどんな権力者も死をコントルール出来ないのではありませんか。今まだ死ねない、死にたくない、仕事が残っている、愛する人がいる、家族が残っている、まだまだ生きたい、それなのに死はこっちの事情を全く考慮しないで有無を言わさず襲いかかって来るのです。しかしキリストはこの死の力を持つ悪魔を滅ぼした方なのです。死の運命よりももっと強い方がキリストなのです。人が死を恐れるのは死に人生を支配させているからです。あなたの人生を握っているのは、またあなたの命を握っているのは、病でもなければ死でもありません。神です。あなたは今まで生きて来たのではなく、この創造主なる神に生かされて来たのです。何のために生かされて来たのでしょう。永遠の命を受け取るために生かされて来たんですね。

死後の世界にある二つの道

 死を恐れる第三の理由は、死んだ後、自分が恐ろしい所へ落ちて行くのではないかと心配するからです。聖書ははっきりと告げています。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」

 人間は死後の世界に二つの行き先があるんです。永遠の天国と永遠の地獄です。そして人間はこの二つを自分で選ぶことができるのです。なぜなら神様はどんなにひどい過去や罪のある人でも、一人残らず天国に行けるようにしてくださったからです。どのようにしてでしょうか。人が犯したすべての罪をキリストに背負わせ、キリストを十字架の上で裁くことによってです。あなたの罪はイエス・キリストによってすでに償われているのです。このキリストの償いがあまりにも完全なものなので、キリストを信じる者は誰一人滅びることなく、死後は魂の父である神のもとに帰ることが出来るのです。キリストを信じた者にとって死とは天国への引っ越しなのです。魂の故郷への凱旋なのです。
 私が現在いる集会は、今から10年ほど前、今の建物に引っ越しして来ました。それは5階建てのビルでレンガタイルで、美しくて、本当に私が気に入っている場所なのです。この建物のすぐ目と鼻の先に、今から30年前に集会所として使っていた場所があるんですね。その建物に戻りたいとは少しも思いません。なぜなら古くて狭くて汚いビルだからです。キリストを信じる者にとって死とは何でしょう。古くて狭くて汚い所から、新しくて広くて美しい御国に引っ越しすることなのです。
 どうぞあなたも死を希望の入り口に変えてくださったイエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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