新約聖書
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11:28)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.606 2011年11月6日

「疲れた人を休ませるキリスト」

おはようございます。高原剛一郎です!

 先日、健康コンサルタントの方が疲労回復の方法をいくつか紹介していました。何といっても睡眠をとるのが一番だそうです。そして睡眠をとるためにお風呂が有効なんだそうです。お風呂に入ると体温が上がりますね。すると体は体温を下げようとします。この体温が下がった状態こそは睡眠モードなんだそうです。実際睡眠中の体温は平熱より1度ほど低いんだそうです。ところでイエス・キリストも疲労回復について語っているということについてはあんまり知られていないと思います。キリストはこう語られたんです。

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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」




聖書が勧める疲労回復方法

 どうしてキリストのところに問題を打ち明けるならば休みがやって来るんでしょうか。
 第一にキリストは人間の心の奥底にあるものを完全に理解し共鳴できる方であるからです。
 今から16年前の1月17日阪神大震災がありました。その前日の16日、ある家の父親が帰宅すると子供たちが起きて帰りを待っていたそうです。約束の就寝時間を過ぎているのに起きている子供に対し、父親はつい声を荒げて「いつまで起きてるんだ!」と叱り飛ばしてしまったんです。そしてその翌日の早朝、震度7の巨大地震が神戸を襲ったのです。一階に寝ていた子供たちは皆亡くなってしまったのです。生き残った父親は最後の会話を思い出すたびに胸が痛みました。何であんなことで怒ったんだろう。どうしてもっと優しくしてやれなかったんだろう。突然の喪失と自らを責める心で彼は生きる気力を失ってしまいます。何とか立ち直ろうと頑張るんですが、立とうとしても立てないのです。

泣くものと共に泣く

 そんな彼のところにあるクリスチャンが訪問を依頼されて行ったんです。彼は目の前で気力を失っている人を前にして何を言えばよかったんでしょう。一家の大黒柱がいつまでもくよくよしていてはいけませんよとか、子供たちの分までしっかり生きて行こうではありませんかとか、時間が来れば癒されますからなどという正論でしょうか。彼がしたことはそういうことではなかったんです。この父親とただ二人きりでおいおいと男泣きに泣いたのでした。なぜなら彼もまた同じような経験をしながら悲しみをこらえて訪問にやってきたのだからです。泣く人ってのは弱い人ではありません。泣くことで倒れそうな自分を立たせている人です。泣く人と共に泣ける人は涙もろいからそうしてるのではないのです。泣く人を見て笑わず、泣く人を見て見下さず、泣いている人にお説教することもなく、一緒に寄り添って泣けるのは、その人を自分のことのように感じ取ってるからこそ出来ることだと思います。そして人は自分の悲しみや重荷を自分のことのように感じ取ってる人を見るとき、悲しみの幾分かが目の前のその人に転嫁されていくんです。

私たちのすべての痛みをご存じである神

 ところでどんな親友もまた親や兄弟であっても、自分の心の中の本当の痛みを完全に理解することはできません。なぜなら私たちは一人一人別人格を持って別々の人生を歩んでいるからです。別人格である以上感受性もまた別のものですね。ある程度理解できますが、自分と全く同じようには理解できないのです。しかし唯一の例外がお一人おられるのです。それが人となられた神、イエス・キリストなのです。この方はあなたの造り主です。あなたの作者です。あなたの心の奥底にあるすべての痛みをご存知です。いやあなた自身が気付いていない自分の心の深い所にある痛みまでもこの方は知り尽くすことが出来るのです。この方があなたを裁くためではなく、労わるため、休ませるためにこの世に来てくださったんですね。

創造主が持つ究極的な愛

 第二にキリストはどんな不完全な愚か者をもありのままで受け入れて愛してくださる方であるからです。17世紀のクリスチャンの詩人にジョージ・ハーバートという人がいます。この人が残した詩に「ラブ(愛)」という詩があります。こんな詩なんですね。

 愛は私を喜び迎えたのですが 私の魂はためらっていました。罪にけがされていることを恥じていたからです。
 すると目ざとい愛は、私が部屋に入った時から歩みがのろいのを見て、私に近寄り優しく尋ねてくれました。
「何か足りないものがあるのか?」と。
  「ここにいるのにふさわしい客がいません。」と私は答えました。
 すると愛は答えました。「あなたがその客なのですよ。」
「え!優しくもなく感謝もできないこの私がですか?ああ、主よ 私はあなたの御顔を仰ぎ見ることもできません。」
   愛は私の手を取って、微笑んで答えました。
「私以外の誰があなたの目を造ったのですか。」
「そうです、主よ。しかし、私はその目を傷つけたのです。恥ずべき私にふさわしい所に行かせてください。」
「あなたは知らないのですか」と愛は言いました。「誰があなたの罪を背負ったのですか。」
 ようやく私は答えました。「それではあなたにお任せします」
「よろしい。食卓に座り、私の肉を味わいなさい。」と愛は呼びかけました。
 それで、私は座り食事にあずかりました。

 ここに登場する愛とはイエス・キリストのことです。ところが私はなかなかキリストの招きに答えようとはしません。尻込みするのです。それはキリストにふさわしい自分ではないということを知っているからですね。愛にふさわしいのは愛されるにふさわしいことをやってきた人だけで、人を傷つけ、自分をおとしめ、不平不満をぶちまけてきた、ろくなことをしてこなかった私など、キリストとは全く関係がない者なんだと思い込んでいるのです。しかしキリストは自分のみじめさに圧倒されているその姿こそは、キリストに一番ふさわしいのだと言って抱き寄せてくださるのです。自分の愚かさに気付いた人こそキリストが探し求めている方なんです。
 なぜキリストのところに行けば休ませてもらえるのでしょう。私の内側で私を責めたてている全ての罪と、その記憶をキリストがご自分の身に引き受けてくださったからです。キリストがあなたのすべての罪の身代わりとなって十字架の上でさばきを引き受けてくださったのです。したがって神はキリストにあってあなたのことを少しも怒ってません。あなたを迎え入れようと優しく待っておられる方なのです。恐れの原因は全部キリストが十字架の上で取り除いて下さったのです。

 第三にキリストは三日目によみがえることで死を滅ぼされた方であるからです。死という人生最大の重荷を自らのよみがえりによって滅ぼしてしまわれた方がイエス・キリストなのです。キリストを信じる者は死という最悪を恐れなくても良いようにしてくださったのです。どうぞあなたもイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。その時あなたは本物の友を得、罪の赦しをいただき、天国の国籍を得るのです。心からお勧めしたいと思います。

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