新約聖書
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。」
(ヨハネの福音書10:18)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.605 2011年10月30日

「いのちの主権者、キリスト」

おはようございます。三綿直人です!

 今朝は、いのちの主権者、キリストというタイトルでお話しさせていただきます。
 私は昨年、韓国で忘れられない初体験をしました。それは犬の肉を食べる、という体験です。私を聖書講演会に招いてくださった主催者の韓国人クリスチャンがせっかく韓国に来たのですから、と韓国でも有名な高級犬料理専門店に招待してくださったのです。その方がおっしゃるには、韓国での犬肉は日本のウナギに相当し、疲労回復、滋養強壮の効果があるというのです。その方が自信満々に「日本のウナギにもピンからキリまであるでしょう。韓国の犬料理も同じです。この店は、とても有名で信頼できる老舗ですから、おいしいですよ。」

カット

 リスナーの方々の中には、海外に行かれた時、新しい食材にチャレンジすることに喜びを覚える人がおられるでしょう。心からうらやましく思います。私は食べものに関してはかなり保守的で、せっかくの招待なのに心は沈んでいました。料理が出てきました。犬肉のスープ、犬肉のサラダ、犬の部位ごとの焼き肉、テーブルの上は盛りだくさんです。私の頭の中には一時爆発的にはやった某消費者金融の犬、チワワの顔しか浮かんでいません。一口食べました。おそらく私のイメージのせいなのですが、なんともいえない臭みがあるんです。お世辞にもおいしい、とは言えませんでした。周りの韓国人の方々は、久しぶりの犬料理だ、と嬉々として食べています。この招待してくださった方が私に聞きました。「犬料理、いかがですか?」周りの韓国人の方も私の答えに興味深々です。私は嘘をつくことできないし、かといってせっかくの好意を無駄にするような失礼な返答もできないので、こう答えました。「犬だけに、ワン!ダフルな味ですね。」通訳の方は爆笑されましたが、韓国人の人はみなポカンとしています。この精錬された知的ジョークがわからないなんて、残念だ、と思っていましたら、通訳の方が教えてくれました。「韓国では犬はワンワンではなく、モンモンと鳴きます。だからせっかくですが、通じないですね。」残念なのは私だったのです。

主権を持たれた創り主なる神

   みなさん、前提が違うとコミュニケーションというのは成り立ちません。私たち日本人が聖書の話を聞いてもポカンとしてしまう要因の一つは、語っている「神」というお方の前提が違うからではないでしょうか。私たちは「カミ」の話を多く聞きます。しかしそれは、ありとあらゆる宗教の神々、人間が考え、作りだした神々であって、聖書が教えている神とは全く違うのです。聖書の「神」は、「いのちの創り主」です。また創っただけでなく、「いのちの保持者」であります。であるがゆえに聖書は「真の神は唯一の真の主権者である」と語っているのです。それは、「いてもいなくてもどっちでもよい」「信じる人にとっては存在する」というようなものではなく、「すべての人の創り主」であるがゆえに、人が認めようと認めまいと、信じようと信じまいと、生み出した方としての主権をお持ちの方である、というのです。

素晴らしく創られ、保たれている地球

  先日、国際宇宙ステーションの運用が2020年で終了予定であるというニュースを聞きました。2000年から始まった宇宙ステーションの運用ですから、わずか20年で終えることになります。もったいない、と考えるのは当然ですが、そんなに早く運用停止する理由は、あまりにも高額の維持費用がかかるためだそうです。この宇宙ステーション、太陽の光があたるときには120度、当たらないときにはマイナス150度、隕石衝突の危険、有害な放射線、などなど非常に過酷な環境、まさに死の宇宙の中で、唯一いのちをそこに保持することができる環境だ、というのです。そのために投じられた費用が12兆3000億円。計算してみました。1年維持するためにかかっている費用が、6150億円、1日維持するためにかかっている費用が、16億8500万円ということになるのです。みなさん、宇宙でわずか1日、我らのいのちが保たれるために莫大な費用がかかると思いませんか。この宇宙ステーションは、人類の英知と技術の結晶ですが、いのちを維持する仕組みを創るうえでモデルにしたのは、地球です。大気の循環システム、水の循環システム、二酸化炭素排気システム、酸素供給システムなどなど。この宇宙ステーションが偶然にできるわけがありません。それと同様に、いやそれ以上に人類歴史の6000年間、規則正しく、いのちを保ち続けているこの地球が、偶然できるわけがない、と考えるのは非常に論理的で理知的なことだと私は思います。

私たちに仕えてくださる主権者

 聖書は、この地球を創り、いのちを保持している方こそ、この世界の王、主権者、まことの神であると語っているのです。しかし、私たちの中には、主権とか、権威とかいう言葉に嫌悪感を覚える人が少なくありません。なぜでしょう。おそらく、私たちは「この世の主権者、この世の権威者」しか見てこなかったし、また今見ていないからだと思います。この世の主権者は人の上にたち、人を治め、神のようになろうとする人たち、だと言えるでしょう。しかし、聖書が語る「いのちの主権者、まことの権威者」である神は、「人となられた神」なのです。イエス・キリストは、神のようになろうとする人々の世界に、人となって仕えるために来られた神、なのです。このような主権者を私たちは見たことがありません。このお方は聖書の中でこのように語られました。

「だれも、わたしからいのちを取ったものはいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」

いのちをかけて私たちを愛してくださる方

 みなさん、私たちは自分のいのちを守るための権威を得ようとしていますが、キリストは、いのちを捨てる権威を語られたのです。この聖書の言葉の少し前を見ますと、キリストはこのように語っておられます。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てます。」
 キリストは私たちとご自分の関係を羊飼いと羊にたとえられました。私がモンゴルに聖書のお話しに行った時、遊牧民で、山羊を370頭飼っている人にお会いし、インタビューするという機会に恵まれました。この方が語っていたことで印象的だったのは、「わたし中心の生活では山羊を飼うことはできない。山羊中心の生活を牧者はしている」というものでした。わたし中心、自分中心の私たちが考える権威は、自分のための権威ですが、私たちを中心と考える真の権威者は、私たち人間のためにいのちを捨てる権威をお持ちであるお方なのです。この方は、言葉通り、自分のいのちを私たちのために捨てるために、十字架に向かわれました 。
 十字架への歩みは、人の目には、愚かで、ののしりと辱めをうける歩みですが、この十字架への歩みこそ、真の主権者が歩んでくださった歩みなのです。十字架でキリストは自分をくぎ付け、辱める人々のためにこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないでいるのです。」私たちは、いのちの君を十字架につけました。自分中心で考える愚かな行為です。しかし、真の権威者、いのちの主権者は、ご自分のいのちのためではなく、わたしたちのいのちのために、私たちのいのちが保たれ、滅びに行かないように、ご自分のいのちをお捨てになったのです。この真の主権者、いのちの主権者キリストが、今日、あなたを招いておられます。私のもとに来ていのちを得なさい、と。
 このキリストこそ、真の主権者、いのちの主権者です。この方をどうぞ信じてください。この方とともに歩む人生の幸いをどうぞ味わってください。魂の牧者であり、監督者のもとに帰ってきてください。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム