新約聖書
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
(ローマ人への手紙6:23)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.604 2011年10月23日

「主キリスト・イエスにある永遠の命」

おはようございます。高原剛一郎です!

 最近私の周りにiPadを持つ人がずいぶん増えてきました。それはタブレット型のパソコンです。これさえあればキーボードもいらない、マウスもいらない、表面を指でタッチするだけでテレビ電話もできれば動画も見れるという代物です。それを見た息子が言いました。「お父さん、これってハリーポッターに出て来たよね。」ハリーポッターというのは魔法使いの映画です。その中に額縁に入った絵がしゃべったり、動いたり、機密の情報を教えてくれたりするんですね。この原作が書かれたとき、こちらに喋りかけたり、知識を教えたりする絵は魔法の世界のお話でした。つまり奇跡だったんです。ところが今では多くの人がiPadを使って不思議がらずに使いこなしているんです。つい10年前の人が見たら魔法か奇跡のような道具です。しかしその当時の人々よりも、より進んだ技術、より進んだ知識を手にしたメーカーにとっては当たり前に作ることが出来るんです。

カット

 時々聖書の中に奇跡が出てくるから信じられない、ナンセンスだって言う方がいらっしゃいますね。でも人間ですら進んだ知恵や技術を持った世代は、古い時代の人々にとっては奇跡のような道具を作ることが出来るんです。ましてや人間よりはるかに優れた知恵と知識と力を持った神が、人間にとって不可思議な働きをなさったからと言って、どうしてそれがナンセンスなことになるんでしょう。むしろ奇跡は神にとって当然ではないでしょうか。もっと言えば奇跡も行えないような神は、神の名に値しないのでありませんか。もし神がいるとすればそれは何でもできる神でなければならないと私は考えます。と言うのは、奇跡は行えない神というのは我々人間とあまり変わらない存在だからです。なんでもできる神様だからこそ天地を無から作り出し、命を言葉で創造し、この世界を人の住みかに整えることがおできになったのです。さて聖書は次のように語っています。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

人間が被った最大の損失

   ここにはすべての人間が背負う残酷な現実とそこから逃れる唯一の道が示されています。残酷な現実とはなんでしょう。人は罪の故に死ぬということです。では罪とはなんでしょう。自分の造り主から離れて生きることです。実はこれほどに痛ましい現実はないんですね。全知全能の神から離れて生きることほど大きな損失はないからです。
 私は先日長野県に行きました。その時、何年か前に登山の好きなお父さんに連れられた10歳と6歳の女の子が、北アルプスを縦断踏破したという話を聞いて驚いたんです。確か、槍ヶ岳から穂高岳まで相当危険な登山道を歩みきって、無事に下山したっていうんですね。いや驚きました。ところで小学生の二人の娘さんはどうしてそんな険しい山を踏破することが出来たんでしょう。それは一緒に登ってくれるお父さんがいたからです。自分たちにとって絶対的に信じ切れるお父さんがいつもそばにいるからこそ険しい山も登りきることが出来たのです。

死の根本原因とは

 ところで人生は時に険しい山に似てますね。天候は不順で、坂道はきつく、足元はぬかるみ、何が起こるかわからないのです。その時、自分のすぐそばに山を知り尽くした父親が寄り添ってくれている人は、それをきっと乗り越えていくことが出来ると思います。しかし信頼できるガイドや父親をどこにも見出せない人は、その場でパニックになってしまうのではありませんか。私たちは皆、父のような神を見失っています。絶対的に信頼できる方を失っているのです。それなのにパニックになっていないのは、たくさんで迷っているので問題の深刻さがピンと来ていないからではないでしょうか。山で迷って誰にも見つけてもらえなければ次にやって来るのは死なのです。
 それと同様に神から離れた人生の報酬、罪からの報酬は死なのです。死の根本原因は神から離れるという罪にあるのです。この神との断絶が人生に死と死後の裁きをもたらしているんです。しかし聖書にはここから逃れる道をも示されているのです。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」というのがそうです。罪を持ったままの人間は死後裁きを受けなければなりません。しかし神様は人間の背負うすべての罪をキリストに背負わせ、十字架の上で罪の永久処分をしてくださったのです。

私たちを悩ませるごみ問題

 今、世界中で問題になっているのはゴミ処理の問題ですね。産業廃棄物は焼却すると大量に二酸化炭素を出すのです。また有毒ガスも出すのです。しかしそれよりもっともっと深刻なゴミは、原子力発電所から出る放射性物質を帯びたゴミなのです。この原発ゴミは、低放射性物質のゴミと高放射性物質のゴミがあります。最大の問題は高放射性物質のゴミです。半減期が数千年から数億年、半永久的に有害であり続けるゴミなのです。焼いても燃やしても減らすことが出来ないのです。処分の仕様がないんですね。したがって誰も引き取り手がないのです。
 今、問題となっているのは福島原発の敷地内にある瓦礫です。放射性物質によって大量被爆したこの瓦礫は誰も引き取りたくありません。そもそも移動すること自体が危険なのです。そして原発の周辺にはすでに飛び散った放射性物質とその風評によってたくさんの方々が移住を余儀なくされたのです。また今住んでいる方々も、人体には影響がないと言われる数値にすら神経をとがらせて安心できない毎日です。ほんのわずかでも放射性物質があるのは無いよりも悪いと考えるからです。そしてそれは長い長い目で見たとき人体に害を与えるに違いないと考えるからです。

罪の処分をもたらす十字架と復活

 私はこの心情を誰も批判できないと思うのです。それは極めて正常な感覚だと思うのです。誰でも命にかかわる可能性に対して鋭敏な感覚になるのは当たり前です。そして、だからこそ私は言いたいんですね。罪はそれ以上に私たちの命に致命傷を与える猛毒なのですと。罪は確実に私たちを永久の滅びに至らせる猛毒、有毒なものです。それは放射性物質のように人の手には負えないおぞましいものです。一体誰がこのすさまじい罪を引き受けてくれるのでしょう。イエス・キリストなんです。キリストがあなたのこの有毒な、有害な罪をたった一人でその身に負って十字架に架かり死んでくださいました。そして身代りに裁きを引き受けて下さったのです。それによってもうあなたの罪の処分は終わってるのです。この方は死後三日目に復活し、救いの完成を立証してくださったからです
 どうぞあなたもこのイエス・キリストを救い主として永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めしたいと思います。

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