「愛による期待」
先日私は生まれて初めてディズニーランドに行きました。最初に乗ったアトラクションはジャングル・クルーという乗り物です。これはいろんな仕掛けのあるジャングルをボートに乗って探検するというものです。案内役のクルーは実にトークの上手な方でした。
彼の語りに乗せられてハラハラドキドキとても楽しい時間となったんですね。いよいよコースが終わる直前クルーが言った言葉はさえていました。「皆さん、さあゴールです。ここからはジャングルよりももっと恐ろしい猛獣が待ち構えています。そう人間という猛獣が」夢を売るディズニーランドの中では実に辛口のコメントですが妙に納得してしまいました。と言うのは人間の社会は一見文明の華々しい装いをしているのですが、毎日のニュースを見ると動物の世界にも無いような醜い事件、残酷な事件が横行しているからです。いったいどうして人間はこのように互いに傷つけあうようになってしまったんでしょう。
聖書にはこう書いています。
「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」
素晴らしいものに造られた人間
ここから人間について次のように言うことが出来ると思うのです。人間は神から迷い出ることさえなかったら、本来は有益な価値ある存在であったということです。実に人間は神に造られたものの中で最も崇高なものであったと聖書は語るんです。
先日NHKの番組で「赤ちゃんの不思議な成長」というのを見て感動しました。番組の内容を一言で言うと、「人はどうして言葉を話せるようになるのか」ということです。日本人として育てられたら普通に日本語を話せますね。アメリカで成長すると自然と英語が話せるようになります。それで言語というのは後天的に教えられることによって身に付くと考えられてきました。ところが正確にはそうとは言えないんです。人が言葉を話せるようになるのは言葉を習得する能力があらかじめ組み込まれているからだと言うんですね。例えば言葉を習得する能力のないサルを、赤ちゃんの頃から人間が引き取って育てても人の言葉を話すようにはなりません。元々言語習得能力が組み込まれていないからです。
ところが人間の赤ちゃんの場合、地上に現存するすべての言語をマスター出来る能力が初めから組み込まれていると言うのです。それで大人には聞き取れない音も赤ちゃんには聞き取ることが出来ています。日本人が苦手とする英語のRとLの違いも明瞭に聞き分けて反応しています。ところが日本語で育てていくと日本語に必要な回路が出来上がるに従ってそれ以外の言語感覚が消失していくって言うんですね。つまり言語に関する限り人は本来持っていた能力を手放していくことによって成長しているっていうんです。
偉大なプログラマーなる神
ところで人間にだけ生まれながらに組み込まれた言語習得能力はコンピュータでいうOSにあたる部分です。日本語、英語、ドイツ語はそのOSの上で作動するソフトなんですね。OSという基本プログラムがあるからこそ各言語というソフトが動き出すんです。そしてOSという基本プログラムがあるならば必ずそのプログラムを組み立てたプログラマーがいるんです。人間に言語習得プログラムが備わっているならばそれを埋め込んだ存在がいるはずなのです。
問題の原因は創造主から離れたこと
聖書はその第一原因者を創造主、神と語るんです。神様は人間を他の動物と一線を画する非常に高度な尊厳あるものとしてお造りになったのです。ところが人は自分の造り主から迷い出て神を見失っています。あげくの果てに自らを神のように考え自分以外の人やこの世界は自分のために存在しているかのように考えて生きるようになりました。自分のために存在しているという世界観でこの世界を見渡すと実に腹立たしく思えてきますね。なぜなら世界はいつも私の期待通りに動いてはくれないからです。夫も妻も親も子供も上司も部下も友人も私の期待を裏切るような発言や行動をするように見えてきます。それでみな互いにイライラさせる存在に見えるんですね。そしてその先にあるのは破滅なのです。これが世界がジャングルになる原因なんです。根本的原因は神を無視する罪にあるんですね。この罪のために人は無益なものとなりました。しかし聖書はこう言っています。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
犠牲を負って赦しをもたらす
アメリカに『最も感動的な人物』賞という賞を出している団体に『ビリーフネット(Beliefnet)』というのがあります。今から六年前、この賞を受賞したのはニューヨーク州在住の女性ビクトリア・ルボロという人でした。ある日のこと彼女は車を運転していた時、突然コチコチに冷凍された七面鳥がフロントガラスに激突して来たんです。それは19歳のライアン・クッシングという青年のいたずらでした。彼は仲間と一緒に盗んだクレジットカードで大量の買い物をし、そして面白半分に対向車の正面に石のように固い七面鳥をぶっつけたんです。ルボロさんの車は大破しました。そして10時間に及ぶ顔面の整形手術と数か月にわたる激痛と辛いリハビリに耐えなければならなくなったのです。
全く見合わない寛容な扱い
そして今から6年前の10月17日この事件に関する裁判が開かれたのです。ところがルボロさんはライアンのために冒頭、情状酌量を求めたのです。そして犯人に対してこう語りかけました。「確かに痛みと恐怖を伴うひどい体験でした。でもこの事故を通して私は多くのことを学びました。私は毎朝目が覚めると自分が生かされてるということを神に感謝するようになったのです。ライアン君、きみもこの事件から多くの教訓を学んだと思います。私は復讐を願ってはいません。あなたに長期刑を科すことは私にとってもあなたにとってもまた社会にとっても益になるとは思いません。」ライアンは泣きながら自分の愚かな行為をお詫びしました。判決は懲役6ヶ月で済んだんです。もしルボロさんの要請がなけければ25年を予測されていたのです。彼は自分のしたことに全く見合わない寛容な扱いを受けたのでした。しかも本人として何もしていないのに、ただただ一方的な憐みで彼は厳罰を免れたのです。しかしそのかげにはルボロさんがすさまじい犠牲をのみ込まなければならなかったのです。
私たちの罪を背負ってくださったイエス・キリスト
神様は私たちの罪をただ見逃すことは出来ません。なぜなら神は正義の神だからです。ただ私たちの罪をキリストの上に背負わせ、キリストを身代りに裁いて下さることによってのみ私たちの罪が許されるのです。キリストの償いがあなたの罪を許すのです。ルボロさんはこうも付け加えました。「私はあなたに対して憐みの心を示しました。あなたに立派な人生を歩む人になってほしいからです。そうなれば私が通過したあの痛みの経験も意味があったことになるでしょう。ライアンどうか私の判断が正しかったことを証明する生き方をしてください。」キリストも今あなたに期待しています。どうぞキリストのうちに飛び込んでください。心からお勧めしたいと思います。