新約聖書
 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 (ピリピ1:21-23)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.599 2011年9月18日

「死を呑んで生きる」

おはようございます。高原剛一郎です!

  先日バードウォッチングのガイドがこんなことをおっしゃっていました。山の中の木の枝にはあっちこっち雛を入れる鳥の巣がありますね。あれを実際自分で作ってみたら鳥ってえらいなあと思うようになるって言うんです。と言うのは、あんなにうまく作れないって言うんですね。人間には左右両手に10本の指があります。この10本の指をどんなに器用に使ってもあんな風に枝の上で安定した円形に仕上げることはまず出来ません。ところが鳥は誰に習ったわけでもないのにくちばし一つで柔らかくて頑丈な巣を紡いでる。これは鳥の中に何者かが巣を作る本能を焼きこんでいるとしか思えないって言うんですね。私もそう思います。

カット

 鳥に安全な住みかを作る知恵を与えてくださったのはこの世界の作者なる神です。鳥に惜しみなくそのような知恵を与えた神様は人間に対しても永遠の住みかである天国について聖書を通して語ってくださってるんです。それはパウロという死の解決を持った人物の言葉から見ることが出来ます。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」

 この言葉を語ったパウロという人物は牢屋の中に放り込まれていました。こととしだいによっては処刑される可能性すらあったんです。死という現実が今にも降りかかってくるかもしれないその時、彼は生きても良い、死んでもいい、どっちでもいいって言うんです。それは投げやりになってどうでもいいって言ってるんではありません。もし生きるならキリストが私と共に生きてくださるので幸いだ。しかし死んだとしてもキリストと一緒に天国に行けるので素晴らしい。この幸いと素晴らしさの板挟みで私は悩ましいんだというふうに言ってるんです。ここには死というものを呑んでいる人の確信があります。どうして彼は死を恐れなかったんでしょう。一般的に多くの方々にとって死が恐ろしいと感じる理由は三つあると思うんですね。
 第一に死んだ後で裁かれるのではないかという恐怖。第二に二度と親しい人と再会出来なくなるのではないかという恐怖。第三に人生を中断されるという恐怖です。しかしパウロという人はこの三つの問題の全部をキリストによって解決していたので死を恐れることがなかったのです。順番に見て行きましょう。

 

解決された死後の裁き

 第一にキリストが死後の裁きを十字架の上で引き受けてくださったがために、死はもはや恐怖でなくなったということです。
 数年前私はある集会に招かれました。お盆の空き時間裏山にハイキングに行こうとしたんです。ところがその年、山歩きにはある種の緊張感があったんですね。何でしょうか。クマが頻繁に出没したんです。どうして分かるんでしょう。実際に被害が後を絶たなかったんですね。蜂箱は壊されるわ、畑の作物は食い荒らされるわ、地元ではほとほと困ってたんです。そしてハイキングも全面自粛だったんですね。しかしそれは私が行く一週間ぐらいの前の話です。実は猟友会の人たちが大挙して数頭のクマを射殺して以来、被害がピタッとおさまったんです。それまでは山歩きは危険だと言われていました。それは人間に襲いかかるものがいたからです。しかし人間を襲うものを完全に除き去った後、山は恐るべきものではなく森林浴の別天地になったんですね。
 死がなぜ恐るべきものとして認識されるんでしょう。死後に人間を襲う裁きが待ち構えているからです。しかしイエス・キリストはこの死後の裁きをご自分が十字架に架かって後、復活することによって退治してくださったのです。あなたの死後の裁きはキリストによって既に解決してるんです。

死別は永遠か一時的か

 第二にキリストを受け入れたものは誰もが天国で再会を果たすことが出来るんです。
 先日息子二人が四泊五日で東北地方にボランティアに出掛けました。私は彼らが乗り込む車まで行って見送りました。ところが娘は兄二人を見送ることなくさっさと英会話の学校に行ったんです。なぜ見送らないんでしょう。五日後に会えるのが分かってるからです。再会できると知っているのでたいそうなお別れをしないんですね。再会の現実があまりにもはっきりと分かってるので別れを別れとすら考えないのです。キリストにあって死ぬものもそれと同じです。確かにこの世ではお別れします。しかし天国を待ち合わせ場所にして再会することが出来るのです。永遠の別れではなく一時的な別れに過ぎないんですね。

未完成に対する無念さ

 第三に人生を死によって中断されることへの恐怖がありますね。まだまだやり残した仕事がある、やり遂げたいことがあるにもかかわらずその完結を見る前に死んでしまうってことは本人にとってなんと悔しいことでしょう。また残された家族にとってもなんと残念無念なことでしょう。

作品の完成は作者が決める

 ところで芸術や文学の世界で天才の名を欲しいままにした人たちは皆未完成の作品を残してるということをご存知でしょうか。プラトンのクリティアス、モーツァルトのレクイエム、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟、ミケランジェロのピエタなどなど天才的作家は最後の作品を作りかけのままに人生を終えてるんですね。ところがこれら未完の作品は完成した作品に勝るとも劣らぬほどの刺激を後世の人々に与え続けているのです。と言うのはもし彼らが生きていたらこの先をどのように続けたんだろうという想像力をかきたてられてしまうからです。これらの未完の作品は不完全な作品ではありません。未完ではあるが不完全ではないのです。これは後世の人々にインパクトを残す未完のメッセージなんですね。人の人生、人の命を握ってるのは神です。そして神様は一人一人の人生を神の観点から見て高度に統合されたものとして実現することがお出来になる方なのです。人間の目には中断の人生、中途半端の人生、未完の状態に見えるかもしれません。しかしその作品が未完なのかこれで良いのかを決めるのは作品ではなく作者が決めることなのです。

私の人生を完成させてくださる神

 もしあなたがキリストに人生をお委ねなさるなら神があなたの人生を完成してくださるのです。なぜなら神様は最善未満をご自分に頼るものに対して決して行われる方ではないからです。あなたの罪を許し、死別の悲しみを癒し、人生の完成を与えるキリストにどうぞご自分を預けて信頼なさってください。心からお勧めしたいと思います。

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