新約聖書
「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」
(ローマ人への手紙10:11)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.598 2011年9月11日

「神の下さる栄誉・贖い」

おはようございます。高原剛一郎です!

  先日ある方が「生き方とは何か?」ということについて講演なさいました。彼によると週に1日だけすることは趣味だそうです。そして週に5日することは仕事です。しかし週に7日することがあったならばそれが生き方だっていうんですね。オフの日もウィークデーも土曜も日曜も関係ない、いつもそのことを考え、それを思うたびに力が湧き、それに人生を賭けているというようなものですね。私にとって毎日考えていることは一つです。それはキリストの福音です。今日はこの福音をズバリ語っている聖書の箇所を紹介いたしましょう。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。

人間は神からの栄誉を受けるために造られた

 第一に人間とは神からの栄誉を受けるために造られた存在だということです。先日ある中学生がいじめを受けるドラマを見ました。作り話だとは分かってるんですが、いじめのシーンを見てると実に不愉快でイライラしてきましたね。人間が人間としての栄誉を受けることなく、まるで動物のように扱われているその姿は、見ていて理屈抜きに気分の悪いものです。なぜそう感じるんでしょう。人間は神からの栄誉を受けるために造られているからです。ここに人間に尊厳があるということの根拠があるんですね。

神は人間に栄誉を与えたいと願っておられる

 第二にそうであるにもかかわらずすべての人は罪のために神からの栄誉を受けることが出来なくなっているということです。そしてここに神が罪を憎む理由があるんです。

カット

 私は中学生の時にとても尊敬する先生と出会いました。社会を教える 茶谷実という先生です。私はこの先生から勉強する楽しさを教わったように思うのです。この先生の推薦する本はたとえ難しい物であったとしても頑張って読破したもんです。やがて私はいっぺんでいいから社会の試験で学年一番をとってみたいと思うようになりました。

とうとうカンニングをしてしまった

 そして中学一年の冬の学年末テストで生まれて初めて徹夜で勉強したんです。一睡もせずに試験勉強に打ち込んだのです。ところが社会のテストは三時間目でした。私は一時間目と二時間目のテストで体力を使い切ってしまい肝心の社会のテストを受ける頃には、猛烈な睡魔に襲われ、半分書いたところで体力の限界に達してしまったのです。このまま寝てしまうわけにはいかず、さりとて頭が回らず途方に暮れました。そしてふと右側を見ると隣の机から答案用紙がベロンとはみ出しているではありませんか。彼女はクラス委員でとても優等生でした。恐らく彼女の答えは間違いないことでしょう。私は見てはいけない!と思いつつ睡魔と好成績を取りたいという二重の欲望に遂に負けてしまい、とうとうカンニングをしてしまったのです。そのまま机に突っ伏してチャイムが鳴るまで熟睡しました。そしてやがて答案が回収されたその時、自分が何と汚いことをしでかしたかについて気付いたのです。私は大変苦しみました。黙っていたら誰にもばれることはなかったでしょう。しかし誰が責めずとも自分の良心が自分自身を責めたてるんです。

自分の心の良心に背くということ

 私は時々神に背いたことなんかないという意見を聞くんですが、そんな人でも自分の心の良心に背いたことはないとは言えないと思うのです。良心というのは神が人に与えた見えない罪の基準なのです。一度でも良心にそむいた行動を取ったことがあるなら、それは神に背いているのと同じなのです。

お前に一番ふさわしくない態度

 私はこの心の内側の葛藤に耐えきれず、とうとう 茶谷先生のところに行って、洗いざらい隣の人の答えを盗み見したということを告白したのです。その時の先生の表情を私は今もって忘れることはできません。私以上に寂しそうな顔をしてこうおっしゃったのです。「高原よ。カンニングってどういう意味か知ってるか。ずるいっていう意味だぞ。」そしてこういったのです。「お前に一番ふさわしくない態度じゃないか!」その一言は痛烈な一撃でした。尊敬する先生の信頼を裏切ったことに胸が痛むとともに、私以上にガックリきている先生に申し訳なかったのです。

人間の罪に痛みを覚えられる神

 罪を犯した人間に対する神の心も恐らく同じだと思うのです。神様は罪人に対しては怒りより痛みを感じておられる方です。軽蔑より悲しみの感情が勝っていると思います。なぜなら神は罪を犯すために人間を造ったのではないからです。反逆させるために自由意思を与えたのではありません。罵り合うために言葉を与えたのではありません。姦淫させるために性をお与えになったのではありません。崇高な神の栄光を現すために人間に与えられた素晴らしいものを、ことごと的外れの使い方で、台無しにしている姿に心を痛めておられるのです。そして栄誉を与えることができないばかりか、その罪の刈取りのために永久に神のいない暗闇に行くことに何よりも心痛めておられる方なのです。

神が人間のために準備された救い

 第三に神はこの罪人を永遠の滅びから救い出すために救い主イエス・キリストを遣わしてくださったという宣言です。キリストは過去にどんな罪、どんな傷、どんな恥ある人生にもびくともしない方です。私たちの正体を知り尽くしたうえで私の罪を背負って十字架に付き、身代りに罰を引き受けてくださり、そして死後三日目に復活した方なのです。このキリストによる償いによる赦しを贖いと言います。

飛び込んだフランス料理店

 私が大学時代の時のことです。集会にはその頃たくさんの高校生が集っていたのです。お盆の時期も過ぎたある夏の日のこと、私は高校生三人を誘って食事に行ったんでした。懐にはバイト代がありましてごちそうしてやるつもりだったんですね。ところがどういうわけか夕食時にもかかわらず店という店は閉まってるんですね。どうやら飲食店は世間の夏休みお盆休みが終わってから取るようなんです。やがて疲れてついに見つけた店にはそれがどんな店でもとにかく入って食べようと飛び込んだんですが、そこは最近できたフランス料理の店だったのです。

嫌な予感が的中

 私は嫌な予感がしたのです。高いんじゃないかと心配したんですね。そして私の想像をはるかに超えて高かったのです。大喜びする高校生は遠慮というものを知りません。私は彼らが頼むコースを三つまでにし、自分自身の分は何も注文しないで我慢しました。払えないからです。やがてペロリと平らげた高校生を見ながら会計間に合うかどうか、払いきれるかどうか心配しながらそのレジのところに行くと、係の方は「もう頂いております」と言うのです。どうして?と思いますと、奥のテーブルに結婚記念日を祝う先輩のクリスチャンがVサインしているんですね。何と彼らが払ってくれたんです。私が払うべきものを代わりに払ってくれたんですね。

罪の償いを命で払って下さったキリスト

 キリストは私が自分の命で払うべき罪の償いをご自分の命で払ってくださったんです。これをキリストによる贖いと言うのです。どうぞあなたもこの贖い主イエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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