新約聖書
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
(コリント人への手紙第一1:30)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.594 2011年8月14日

「義ときよめと贖い主」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は先月宮城県の石巻までボランティア活動に行ってきました。がれきの中で泥のかきだしをするんです。しかしその現場に入る前に完全装備の備えをしました。頭には日射病対策の帽子をかぶり、鼻と口は粉じん対策用のマスクで覆いました。両手は布手袋の上から厚手のゴム手袋をしました。足には長靴を履きましたが靴底にはステンレス製の板を敷いたのです。歩いているうちにクギを踏み抜いてしまうからです。

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 これらの備えは修羅場で活動するために無くてはならないものだったんですね。普段の軽装であの現場に入るのはとても無謀なことなのです。ところで私たちは人生の最後に一人一人が正真正銘の修羅場をくぐることになります。それは死という修羅場です。危険なところに無防備で行く人はいませんね。必ず身を守るための準備をして臨みます。

最大の修羅場で待ち構えているもの

 では人が自分自身の死という現場に立ち入ろうとするとき一体どんな備えがあるんでしょうか。いやあなたには今、死の備えがあるでしょうか。聖書はこう言うんです。人間は死んだ後、肉体を離れた魂が、一人一人神の前に立つときがやって来る。そこで自分の人生の全てをご存知の方の前で言い開きをしなければならない。そしてこの聖く正しい神の前ではいかなる人間も罪あるものでしかないと言うのです。そして人間はこの罪の故に裁きを受けることが定まっているのです。しかし私たちを愛する神様は私たちにこの審判という修羅場を乗り越えるための備えを用意してくださったのです。
 聖書にこう書いてあります。

「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」

キリストと私たちの関係

 ここでキリストは人間にとって三つのものになられたと語っています。
 第一に、義となられたのです。義というのは神の目から見ても非の打ち所のない完全に正しいものと見なすということなんですね。どうして罪だらけの人間が非の打ち所のない正しいものと見なされるんでしょう。キリストがあなたに代わって罪の償いをしてくださったからです。

新しい喜びをもたらしたもの

 ドストエフスキーの最後の作品に『カラマーゾフの兄弟』があります。この小説の中にゾシマというクリスチャンの指導者が出てきます。彼は若い頃ハンサムで賢くて勇敢で人気抜群の軍人でした。ある日参加したダンスパーティーで一人の貴婦人に恋してしまうのですが、実は彼女にはすでに婚約者がいたのです。そんな事情を知らないゾシマは一方的に熱を上げます。しかし彼が外国へ遠征している間に彼女は結婚してしまうのです。帰国した後でそれを知ったゾシマは、プライドを痛く傷つけられ、乱暴な言いがかりを新婚の夫に突き付けて決闘にまで持ち込むことに成功します。そしていよいよ明日決闘というその日、頭に血の上ったゾシマはいったん家に帰るのですが、何も知らない門番が丁寧に挨拶すると虫の居所の悪かったゾシマは何も言わずにいきなりこの門番を殴り倒すんです。うっぷん晴らしなんですね。ゾシマはそのままベッドに倒れ込んで朝まで熟睡します。やがて小鳥のさえずる爽やかな朝の中で彼は目を覚まします。しかし心の中で何やら居心地の悪い、何とも言えないわだかまりがあるということに気が付くのです。それは門番を殴り倒したことを思い出したからです。彼は穏やかな自然の中で、独りよがりの怒りを持って、自分勝手に傷つき、我がままによってたくさんの人の人生を台無しにしようとしていることに気が付き始めます。そして思い切って門番のところに行って土下座して謝るんですね。するとどうでしょう。心の中から何とも言えない新しい喜びが湧いてきたと書いてあるのです。

呪いを引き受けてくださったイエス

 ところでゾシマの不当な怒りを黙々と引き受け、何一つ反撃せず、それどころか殴り倒された後もその晩寝ずに彼の家を守ってくれたこの門番は、実はイエス・キリストのひな型なのです。キリストは手前勝手なプライドで居丈高にふるまう人間の手によって徹底的にリンチに遭われました。その後で十字架に架けられ、そしてあの暗黒の中で神からの裁きを一身に引き受けて下さったのです。それはあの門番のように人間に罪の裁きが及ばないようにたった一人で呪いを引き受けることによって食い止めるためだったんですね。このキリストの十字架の犠牲があなたのための義なのです。

私たちの心に住んでくださるキリスト

 第二に、この方は私たちの聖めとなられましたと言うのです。キリストは信じた人の心の中に住んで、その人との交わりを通し、その人の思いや、考え、品性を聖い者へと変えていかれるんです。
 かつて日本のボクシング界に伝説の名トレーナーがいました。エディ・タウンゼントという人です。彼の手によって6人も日本人の世界チャンピオンが生まれたんですね。彼は自分でよく言っていました。「私はボクシング以外何もできない人ですが、一つだけ得意なことがあります。それはしおれた花をしゃんとさせることです。」試合に負けて心が折れかかったボクサーをメラメラと闘志満々に変える手法を、彼はよーく心得ていました。それは一言でいうと絶対に見限らないということなんです。彼は言いました。「勝った時にはジムの会長が選手を抱くよ。でも負けた時には私が抱くんだ。」負けた時とことん付き合って、勝つボクサーになるためのスピリッツを吹き込んでいく天才だったんですね。どのようにして彼はそのスピリッツを伝えていったんでしょう。一緒に生活することによってです。人は誰と生活するかで人格が大きく変わって来るんですね。キリストを信じる者にはキリストご自身がその人の心の中に住んでくださるのです。そして内側からその人を聖めていかれるんですね。

栄光の姿に変えられる希望

 第三に、キリストは私たちの贖いとなられました。この贖いというのは肉体が栄光の姿に変えられることを指しているんです。栄光の姿、栄光の体って何でしょう。キリストが死後三日目によみがえらされた体のことなんですね。今はキリストを信じても病気にもなる、年とともに老いていく、老いれば体のあちこちに痛いところが出てくる、目は見え辛くなり、耳は遠くなり、歯は抜けていき、腰は曲がり、足を引きずり、やがて人は朽ちていきます。しかしキリストがまた天から戻って来られる時に、キリストを信じている全ての人は栄光の体に変えられて、一気に天に引き上げられると聖書は繰り返し繰り返し約束しているのです。もはや病むことも、弱ることも、死ぬことも、そして罪を犯すこともない完全な体に変えられて、よみがえらされて、そして栄光の天国に引き上げられるのです。
 どうぞあなたも神が備えたイエス・キリストを受け入れてください。本当の死への備えはここにのみあるからです。心からお勧めしたいと思います。

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