新約聖書
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」
(ヨハネの福音書9:1-3)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.590 2011年7月17日

「問うものから問われるものへ」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は先日ロータリークラブで中東問題について講演しました。質疑応答の時間になりましたが皆さん緊張してなかなか手が上がりません。どんな質問でも結構ですと促すと一人の男性が口火を切ってくださいました。「講師、足のサイズ何ぼですか?」と聞いたんですね。一瞬頭の中が真っ白になりました。しかし会場はどっと笑いが沸き起こったんです。彼が靴メーカーのオーナーだったからです。緊張が解けた後の質疑応答の時間はとても充実したものになりました。愉快な質問は愉快な雰囲気を生み出しますね。肯定的な問いは肯定的な答えを引き出すんですね。

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 さて聖書の中にキリストと弟子たちの質疑応答がたくさん出てくるんです。あるところに生まれつきの盲人がいました。彼について弟子たちはキリストに質問するんです。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」生まれつきの重いハンディキャップを負う人を見た弟子たちはその原因はどこにあるのかと犯人捜しをしたのです。誰の責任ですか、誰が悪かったからこうなったんですか、誰の罪が引き起こしたものですかと「誰が」という点に焦点をあてた質問をしているんですね。しかしイエス・キリストは誰がという問いにはお答えにならないで、その代りに人生の目的についてお語りになったのです。どうして弟子の誰がという問いにはお答えにならなかったのでしょう。質問の持っている方向性が間違っていたからです。実は人生の中で遭遇する様々な出来事に対して迷路に入り込んでしまう問い方が三つあるんですね。

人生を迷わせる質問とは?

 第一は「なぜ?」という質問です。なぜ同僚はもっと一生懸命に仕事しないんだろう。なぜ私ばかりがこんな目に遭うんだろう。なぜあの人は私の邪魔ばっかりするんだろう。私たちがうまくいかない時、なぜこんなことに、と考えるとどんな気分になるでしょう。落ち込むんですね。なぜですか。被害者意識のとりこになるからです。なぜ私ばかりがこんな目にあったのかを考えると自分が周囲の人たちの犠牲者に見えてくるのです。実際犠牲者の面はあると思うんですね。しかし打つ手のない犠牲者のように思えてくるのです。なぜなら周りの人の考えや行動が私の人生を決定する、とするなら私は周りの人々の奴隷にすぎないからです。奴隷には自由がありません。人生になぜと問い詰める姿勢は自らを暗闇の中につなぐことなのです。それは不毛の問いかけなんですね。

人生を不自由にする質問

 第二にしてはいけない問い方は「いつになったら?」ということです。いつになったらメールの返事が返って来るんだろう。いつになったら頼んでた荷物が届くんだろう。いつになったらこの状況は変わって出口が見えるんだろう。これもまた人を不自由にする質問です。というのは今自分が出来ることをしないで今出来ないことのアリバイ作りを用意する質問であるからです。返事がないので今私は何も出来ない、打つ手がないというのはまあある面事実なんですけど、返事がなくても出来ることはほかにあるはずなんです。しかしいつになったらという相手任せの発想で見ると、私がすべきことがずるずるずるずると先送りされてしまうのです。何かを先延ばしにするとストレスがたまりますね。宿題が増えるからです。手を付けるべきことをしないと人生がおっくうになってきます。自分の人生の決定権を誰かに握られているような気分になってくるんですね。

解決をもたらさない問い方

 第三にしてはならない問いかけ方は「誰のせいで?」という質問です。誰が間違えたからこうなったのか。誰が締め切りに遅れたんだ。誰がへまをしたんだ。誰がしくじってこんなことになったのかという問い方です。
 あの3月11日の東北大震災で福島第一原発が破壊されてしまいました。事故調査委員会が発足しましたが委員長は失敗学で有名な畑中洋太郎という方です。彼は失敗の研究をする専門家なんですがこの委員会の初めにはっきりと宣言なさったのは、「調査は犯人探しではありません。誰かの責任追及のための委員会ではありません」とおっしゃったことです。もしそれをやれば真相は分からなくなるからです。誰もが自分を守るために本当のことを言わなくなってしまうんですね。誰のせいでこうなったか、誰が罪を犯したから盲目になったのか、この人ですかその両親ですかという問いは単なる犯人捜しであって、たといその原因が誰かということが分かったとしても何の解決ももたらさない質問なんです。

人生に問うのではなく、人生から問われている私たち

 なぜこんな目に遭わなければならないのか、いつになったらよくなるのか、誰のせいでこうなったのかというこの三つの質問は人を過去と環境の奴隷にする問い方なのです。それでキリストはこれらの質問にはお答えになりません。その代りにこうおっしゃったのです。神のわざが現れるためですと。人は神の栄光のために造られました。人生は神の栄光を現すために与えられました。人間の上に降りかかる問題は神の素晴らしさを示すために許されましたというのです。あなたはこの目的を知らされてどう答えますか、とおっしゃったのです。実に人生は私がなぜと問うものではなく私がどうする?と問われているものなのです。

シロアムの池で洗いなさい。

 では具体的にどうしたらいいんでしょう。キリストはこの盲人の目にこの後、唾で泥を作って塗り付けそしてこうおっしゃったのです。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。何と彼はキリストによる奇跡によって目が見えるようになったんです。しかしそのキリストの奇跡は何によってもたらされたのでしょう。自動的に彼が何もしないでもたらされたのではないのです。彼がキリストの言葉に答えることによってもたらされたのです。

救い主なるキリストに応答する人生

 この歴史的事実を適用して考えるならこうなると思うのです。なぜこんな目にあったんだろうと問うかわりに、今ここで神の素晴らしさを現していただくために私が出来ることは何かを考えてそれを実行することなんです。いつになったら良くなるかを考えてひきこもるのではなく、キリストならどうするだろう、いやキリストが助けてくださると言うなら私ができる解決策はどんなものが考えられるだろうと自分に問うことです。誰のせいだろうではなく私はどうすれば神の栄光を現していただけるだろうと自らに問いかけてみることなのです。彼はシロアムの池で洗って見えるようになりました。シロアムとは遣わされた者という意味です。遣わされた者とは誰のことでしょう。キリストのことなんです。キリストのところへ行ってキリストの提供してくださる救いで自分を洗うことが本当の解決の始まりなのです。
 どうぞあなたも神から遣わされた救い主イエス・キリストのもとに行ってください。心からお勧めしたいと思います。

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