新約聖書
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」
(ヨハネの福音書11:25-26)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.587 2011年6月26日

「死んでも生きるのです」

おはようございます。尼川匡志です!

 東日本大震災の後よく耳にする言葉の一つに「想定外」という言葉があります。私達の人生はこの「想定外」の出来事がよく起こるものです。でもそれは日ごろ何を「想定」して生きているのか?によって大きく変わるものなのです。

カット

 3月11日、年間に2500万人が訪れる日本最大のテーマパーク・ディズニーリゾートを震度5強の大きな揺れが襲いました。この日7万人の入場者があったそうです。普通なら大パニックになりそうなものですが、そうはなりませんでした。

不安の中で安心を与えた対応

 それはよく訓練を受けたスタッフ達の冷静で迅速な対応があったおかげだと言われています。彼らがどのような行動をとったのか、地震が起こった時、まずスタッフ達がした事は「ゲスト」と呼ばれる入場者を出来るだけ危険の少ない広い場所に誘導し、座るように指示した事です。僅か40秒後には園内放送で地震の第1報が流されました。それからのスタッフ達の動きには目を見はるものがあります。

スタッフのチームワーク

 まずスタッフはショップで売っている大きなキャラクターの縫いぐるみを「これで頭を守って下さい」と言って配り出します。別のスタッフはお土産用のクッキーやチョコレートなどのお菓子を配ります。また別のスタッフは、3月にしては気温10度という寒さの中、段ボールやお土産用のビニール袋、ブルーシートやポリエチレンの手袋など少しでも寒さを防げるものを次々と配っていきました。別のスタッフは笑顔でジョークを言いながら不安そうなゲストの心を和ませました。そして刻一刻と変化していく交通情報を貼りだされていたそうです。

5万人分の非常食が備蓄されていた

 日没が近づきゲスト達の間に不安が広がり始めました。「いつまでここに置いてもらえるんだろうか?」その心配は無用でした。夜にはゲスト一人一人に温かなひじきご飯が配られたそうです。なんとディズニーリゾートには5万人が3日間食べるだけの非常食が備蓄されていたそうなんです。この日2万人の人がこの場所に足止めされましたが、不安ではなく安心して朝を迎えたといいます。スタッフの9割がアルバイトであるにもかかわらず、なぜこの様な事が可能になったのでしょうか。

どう想定するかが大きなポイント

 実はそれには理由があります。ディズニーリゾートでは「震度6の地震が起こり、園内に10万人のゲストが残される」事を「想定」して、年間なんと180回の防災訓練をしていたと云うのです。つまり今回の震災はディズニーリゾートにとっては「想定外」ではなく「想定内」だったのです。どのように「想定」をして日頃生きているのか。それがいざという時の分かれ目になるのです。

必ず起こることを「想定」しているか

 さて、私たちの人生には不確実な要素がたくさん含まれています。ですから「これは絶対に起こる」とか「100%間違いない」という事はなかなか言えません。しかし、どんな人にも100%間違いなく起こることが一つあります。それは「死ぬ」ということです。誰もが絶対に死ぬのです。これは間違いありません。ですから私たちにとってこの「死」は当然「想定内」の事であるはずです。私は死なないと思っている人なんて一人もいないはずです。そしてこの「死」というものが、何の前触れもなく突然、襲ってくる事もよく知っています。つまりこれも「想定内」なのです。突然私は死ぬ存在である。これが私達の「想定」であるはずです。

あなたはどんな備えをされていますか?

 ではその想定に沿ってあなたはどのような備えをしておられるでしょうか?ディズニーリゾートは、年間180回の防災訓練をし、非常食を15万食備蓄し、スタッフを徹底教育していました。だから今回の震災を乗り切れたと言えるでしょう。ではあなたはどうですか?どんな備えをされているでしょうか?聖書にこのような言葉があります。

「イエスは言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。また生きてわたしを信じるものは、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」

イエスが与える「永遠のいのち」

 イエスはご自分のことを指して「よみがえりです。いのちです。」と言われました。ギリシャ語で「いのち」を表す言葉は2つあります。一つは「ブシュケー」これは生物的な命を指します。そしてもう一つは「ゾウエイ」という言葉です。これは霊的ないのち・神につながるいのち、聖書の中に出てくる「永遠のいのち」を表しています。ここでイエスが「私はいのちです」と言われた「いのち」とは「ゾウエイ」 霊的ないのちのことを言われたのです。つまり「私は永遠のいのちそのものだ」という意味です。

「プシュケー」は例外なく死ぬ

 この事が分かると先ほどのイエスの言われた意味が見えてきます。「私を信じるものは、死んでも生きる」一見突拍子もないこの言葉は、「イエスを信じ、この方につながった者は確かに肉体は死ぬ。しかし、神に連なるいのちは持ち続ける事が出来る」という意味なのです。人間は神を信じても信じなくても、正しく生きても正しく生きなくても、若くても歳をとっていても死ぬ時は死にます。私達の肉体のいのち「プシュケー」は例外なく死ぬものです。しかしイエスを信じ、この方につながった者は神の国、天国で生きるいのちを持つのだというのです。死んでも生きるのです。

死後の世界はあるのでしょうか

 人間は死んで終わりでしょうか?私はそう思いません。あなたはどうですか?死んで終わりとお考えになりますか?多くの人が「人は死んで無になるのではなく、何かある」と思うから、古今東西多くの宗教が誕生したのです。人間は死んで終わりではありません。ではどうなるのでしょうか?誰もが死んだら無条件で天国へ行くのでしょうか?いいえそうではありません。イエスの言葉を思い出して下さい。「わたしを信じるものは死んでも生きる」と言われたのです。イエスを信じる事、それが分かれ道です。

イエスこそ真のいのち、確かな道

 仮にあなたが高い所に登ったと想像して下さい。あなたはご自分の命綱をどの様な所に繋ぎますか?絶対に確かな所に繋ぎますよね。繋いだ所がいい加減な所なら、いざという時その命綱は役に立ちません。どこに繋ぐのか、それがあなたの生死を分けるのです。イエスは言われました。「私はよみがえりですいのちです」そうです、イエスはその言葉通りに、死人を蘇らせました。不治の病を治し、盲人の目を開きました。私達のいのちと身体を与えた方なのです。そしてご自分は十字架にかかって死なれましたが、3日後に復活されたのです。だからイエスの墓は存在しません。イエスが語られたとおり、この方は「よみがえりでありいのち」なのです。このイエスに繋がることが最も確かな道なのです。

死を越える神の祝福

 私達は必ず死にます。「死」は想定しておかなければならないことです。そしてその備えをする必要があります。それはイエスが語られたことを信じる事です。イエスの言葉をもう一度思い出して下さい。「また生きて私を信じるものは、決して死ぬことがありません。」このことをあなたは信じられますか?


※本文中の太字は聖書のことば

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