新約聖書
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」 (ヘブル人への手紙2:14,15)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.579 2011年5月1日

「死の恐怖を粉砕するキリスト」

おはようございます。高原剛一郎です!

 さて、今から二百年ほど前、江戸時代に伊能忠敬という人がいました。足かけ17年かけて日本全国を歩きまわり日本史上初めて国土の正確な姿を明らかにした人物です。彼の歩いた距離は徒歩で四万キロ。地球一周分ですね。しかも人生50年と言われていた時代に50代後半から歩き始めるんです。九州の地図に取り掛かるときには歯は抜け落ちて一本しかなく、もはや漬物も食べることは出来なかったというほどです。

恐れに支配された人間

カット
 ある年のことです。測量のために旅に出ようとする彼のために友人たちが送別会を開いてくれました。ところがその祝いの席で梁の上にあったツバメの巣から一羽のひながポトリと落ちてきてそして息絶えてしまうのです。それを見ていた人たちは不吉な予感がはしります。みんなで今日の出発はやめた方が良いと言って止めるんですね。しかし忠敬は一笑に付して、「ツバメのひなの不注意で起きたことでどうして天下の大事業を取りやめねばならないのか」と言って進んでいくんです。さらにいよいよ出発というときに新しいわらじのひもがプツっと切れてしまいます。そばにいた人たちは重なる不吉のしるしにおののいて出発の延期を勧めるんですが忠敬は新しいわらじに履きかえて平然と出発します。ところが門のところまで来ると今度は納屋にあった頑丈な樽がどういうわけか破裂するんですね。みんなは3度も続いた不祥事におびえるんですが当の忠敬は平然として言うんです。「古い樽が壊れるのは珍しいことじゃない」。そして予定通り旅立っていきます。

測量は大成功

 そして測量は大成功し、元気で帰宅し、忠敬個人の事業から幕府の事業に取り立てられていくんです。もし彼が縁起の良し悪しや因習にとらわれる人であるなら、とてもあんな大事業を完成させることは出来なかったでしょう。ところが江戸時代の彼が全く恐れなかったものを現代人の我々が恐れて支配されてるように思えてならないんですね。

恐れの根本原因である死

 何か思うようにならないことがあると名前の画数が悪いんじゃないかとか、いやいや家の方角がよろしくなかった、いやいや今年は大殺界で何をやってもうまくいかない年なのだとなんの根拠もないオカルト思考にからめ取られた話が実に多いのです。実際日本の中で今まで最もたくさん売れた本は何か。占い師細木数子氏の星占いの本なんです。人口一億二千万の国でなんと七千万部も売れたというのです。伊能忠敬がそれを見たら、「おい日本人しっかりしろ!」と言うんじゃありませんか。どうして占いに頼ったり、吉兆をおみくじで見たり、合理的ではないものに人生を託したりするんでしょう。それはこの世の中が道理で動いてるようには見えないことがしばしば起こるからだと思います。しかも人間の力ではコントロールできないような圧倒的な自然の力や災害が何も悪いことをしていない人にまで降りかかってくることがあるのです。目に見えない運命に翻弄されているように感じる人間の根底にある思いは恐れです。その恐れを突き詰めていくと死への恐れだと思うのです。地震や津波や病気や戦争を恐れるのはそれらがみな死と結びついているからです。さて聖書はこう言っています。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

死を粉砕してくださる救い主

 聖書によると人間は一生涯生きてる間死の恐怖につながれているって言うんです。
 私には子供が三人おります。二人目の男の子は赤ちゃんの時良く笑いました。誰かが話しかけなくても笑いました。ひとりでに笑い出すんですね。と言うより笑いがこみあげてくるんです。いったいなぜ赤ん坊って笑うんでしょう。生きているのが理屈抜きに楽しいからです。命が躍動していると理由なしに喜びがこぼれてくるんですね。ところが成長するにしたがってあまり笑わなくなりました。ある時から任天堂のゲーム機にはまるようになったのです。と言っても我が家ではそれを買わなかったんですね。買わないと友達のを借りてやるんです。もう口から出てくる言葉はゲームのことばっかりなんですね。

君はいつからゲームの奴隷になったんだ

 それである時言いました。「君はいつからゲームの奴隷になったんだ」と聞いたんです。すると彼は言いました。「僕だってゲームのことなんかに支配されたいとは思ってないよ。でもゲームのことを考えてないと死んだらどうなるんだろうと言う考えが湧いてきて心がめちゃくちゃになるんだ。ゲームに熱中してる時だけが死のことを忘れることができる時間なんだ」と言ったのです。私はそれを聞いた時、先のみことばを思い出したのです。こんな小さな子供でも死の恐怖につながれて生きているのだなぁと。しかし先ほどの聖書の言葉にはもう一つ大切なことが語られています。それはキリストは私たちを死の奴隷状態から解放してくださるために自ら一度死んでくださった。死んでよみがえることで死を粉砕してくださった救い主だということです。

身代わりの死によって表された愛

   今から二百年ほど前、中国の清の国に呉鳳という役人がいました。彼は台湾の阿里山の役人です。義理人情にあつく阿里山のツォウ族の人々を愛しておりました。ところがこのツォウ族には一つ厄介な風習があったのです。祭りの時に人の首を切って神々への供え物にするのです。呉鳳はこの悪習を何とかやめさせたいと思っていました。当時ツォウ族が貯蔵していた人間の首は全部で40個ありました。呉鳳は毎年その中から一つだけを祭りに使うことを許していたのですが、40年たった時もはや首がありません。ツォウ族は新たに人の首を切らせてくれとせがむのです。3年間押しとどめましたが住民の不満が募り手がつけられなくなりました。そこで呉鳳はこれが最後の一回と約束させて首切りの許可を出すのです。明日の正午赤い帽子に赤いマントの男がここを通る。その首を切り落としなさいと言うのです。次の日その人物が本当に現れました。ツォウ族は飛び出していってその人の首を切ったのです。しかしみるとそれは呉鳳その人だったのです。彼らは呉鳳の遺体に取りすがって泣き、身を投げ出して自分たちの悪行を食い止めようとした心に気付き以来首切りをやめるようになりました。


神の裁きを代わりに受けてくださったイエス

 キリストがしてくださったことはそれ以上のことです。キリストは人間の罪を何もかも背負って十字架の上で殺されてくださいました。そして神様の裁きをその身に引き受けて下さったのです。そしてそれによって罪の醜さと神の裁きの恐ろしさを現してくださったのです。そしてさらに三日目に復活して死を克服なさったのです。あなたを死に対する諦めの悪習から立ち返らせ永遠の命を生きるようにさせるためです。どうぞあなたのための救い主イエス・キリストを心の中に受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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