新約聖書
「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2:13,14)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.575 2011年4月3日

「すべての罪状を廃棄したキリスト」

おはようございます。高原剛一郎です!

 さて皆さんは初対面の方と会った時、最初にどこに目が行きますか。私はつい頭髪に目がいくんです。いつからそうなったんでしょう。自分の髪の毛が薄くなった頃からですねえ。あるとき髪の毛の専門家に質問したことがありました。「何のために髪の毛って生えるんですか。」するとこの方は意外な答えを教えてくれたのです。「人間の体を清めるためです」って言うんです。実は髪の毛に限らず全ての体毛は体の中に蓄積した有害物質を体の外に運び出すという役割を持っているんですね。

有害なものを外部へ出してくれるもの

 実は人間の体の中には食品を通して重金属や有害物質が入ってくることがあるんです。汚染された川や海で取れた魚を食べると汚染物質が蓄積されるんですね。ところが体毛というのはそういう有害なものを取り込んで外部へ出してくれるんです。例えば一度覚せい剤を使ったら三年後の髪の毛にまだ残存してるっていうんですね。実に見事なまでに人間の体というのはよごれた物、有害な物、命に危険をもたらすような物を排除するように設計されているんです。肉体の健康は悪いものを除くことで自然に良くなるからですね。

人間にとって最も厄介なもの

    ところで体の中の毒は髪の毛で外に出すことができますが、心の中の猛毒である罪は自力で排出することはできないのです。しかし肉体を清く保つシステムを造ってくださった神様は私たちの罪を清める救いを準備してくださったのです。ところで罪とは一体何でしょう。一般的には法律を破ることが罪だと考えられていますね。しかし聖書の語る罪の意味は違います。自分の造り主から離れ、神様に背を向けて生きること。これを聖書は罪と語るのです。そしてその罪の結果はいびつな生き方と悲惨な死後の裁きに表わされているのです。 

不幸な国の幸福論

 私は先日カトリックの精神科ドクターで作家でもある加賀乙彦さんの『不幸な国の幸福論』という本を読みました。彼のもとに訪れる人々の話を聞いていると、この人は自分で自分を不幸へと追いやっているのではないかとみえる例がとても多いそうです。ある男性は中学二年の時から引きこもり生活に入りました。理由を聞いてみると、背が低くて顔が醜いのでとても外へ出られたもんじゃないというんですね。ところが彼はなかなかのイケメンなんです。こういう症状を醜形(シュウケイ)恐怖症というそうです。醜形というのは醜い形と書いて醜形と読むんです。彼はそうなる原因を三つあげています。

自分を不幸に導く三つの原因

 第一にインターネットの情報洪水の中で見られている自分への意識が過剰になっているということです。人にどう見られているのかが気になって仕方がないんですね。いつも見つめているのは実は世界ではなく自分自身です。これは人間を駄目にします。自分の内側を見続けて輝く人なんかいません。自分の中に答えはないからです。自分という問題ではなく、自分を造ってくださった神を見上げなければ自滅してしまうのです。
 第二に他人に認められるということが至上価値になっているということです。世間に認められ、他の人に称賛されることを人生の目標にすると人は自滅しやすいですね。気に入られるために手段を選ばなくなるからです。そもそも人からの賞賛は一時的です。あっという間に賞賛された人もした人もいなくなります。他人に認められることに至上の価値を置くことは世間を神にする人生観です。しかし本当の評価は人が下すのではなく神が下されるのです。
 第三の問題点は自分の対人関係の問題を、自分の人格的な未熟さにあるというふうには捉えずに、自分の姿かたちの問題にすり替えているということです。どうして顔や身長やスタイルのせいにするんでしょう。基本的にそうしておけば親に責任転嫁できるからです。こんな姿に産んだのは親なんだから自分には責任はないと思うことができるからですね。しかし世の中にはそんなに美男美女でなくても魅力的な人っていっぱいいますよね。そういう人に共通していることは、我を忘れて熱中できる偉大な自分以外の何かを持っているということです。私はその偉大なる方を紹介したいのです。

使命と目的を与えられた創造主

  あなたを崇高な目的のために、その今の姿かたちに造り、あなたに才能を与え、あなたに使命と目的を持っておられる方です。その方こそはこの天地万物の造り主、聖書の語る創造主なのです。この創造主に背中を向けて神を除外して生きることが自意識過剰の病理に至る原因なのです。神様はあなたに人生の目的と使命を持ってる方です。この方から離れるなら無目的、無意味の人生になってしまうんですね。そしてその結末は死と死後の裁きなのです。しかし聖書にはこう書いてあります。

「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」

完全破棄された債務証書

 第二次世界大戦のヨーロッパはナチスヒトラーの暴力で屈服しそうになっていました。そのような中でユダヤ人をかくまったために、絶滅収容所に放り込まれたオランダ人のクリスチャン女性の姉妹がいました。あるときこの二人は別々にナチスの裁判官のもとへ連れて行かれました。彼は多くの尋問をしたのです。その答え方によっては射殺されるかもしれなかったのです。すべての尋問が終わった後で妹の方が聞きました。「一つお尋ねしてもいいですか。」「なんだ言ってみろ。」「あなたの生涯は暗いですか。それとも光に満ちていますか。」しばらくの沈黙の後、「真っ暗だ」と言ったそうです。すると彼女はその裁判官にキリストによる救いを語ったのです。姉もまた同じ裁判官に尋問されました。そして彼女もまた福音を語ったのです。そして彼女は「もしよろしければあなたのためにお祈りしましょうか。」彼は後に妹の方に言いました。「私は決してあなたの姉さんの祈りを忘れることはできない」と。

燃やされた死刑命令文書

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 それから数ヶ月たった時、その裁判官は何枚かの書類を妹に見せました。それは彼女の死刑執行命令書だったのです。彼は言いました。「この判決文に対して何か弁明できますか。」「いいえできません。」彼女はそこに書いてあることを認めたのです。とその時、彼はその死刑命令文書を取り上げたかと思うとストーブの中に入れて燃やしてしまったのです。灰になった判決文は二度と元には戻りません。すべては神の手の中にあったんですね。神はあなたの罪の記録を全てキリストの十字架によって燃やしてしまわれました。
 もしあなたがこの事実を受け入れ、あなたのために十字架で死んで三日目によみがえったキリスト信じるならあなたは罪の裁きから救われ神の子とされるのです。どうぞこのイエス・キリストを信じ受け入れてください。

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