新約聖書

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
(マルコの福音書10:45)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.574 2011年3月27日

「与えられたいのち」

おはようございます。尼川匡志です!

 聖書の中にこの様な言葉があります。
「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
 この様な言葉を聞くと、多くの人はこう思われるのではないでしょうか。『なんて堅苦しいんだ。そんな事が出来るくらいなら誰も苦労するものか!私にはそんな事は出来っこない。だからクリスチャンには絶対なれません』と。皆さん誤解しないでほしいのです。聖書の神は、あなたに『努力をし、我慢して、正しい人間、真面目な人間になれ!』と求めているわけではありません。そうではなく私達が悪の溢れるこの世界で不平や不満でいっぱいになったり、怒りと悲しみに満たされるのではなく、喜びと感謝に溢れ、どんな事があっても希望を失わない人生を歩めるように導き入れたいのです。そんな人生を与えたいと願っておられるのです。

悪いもので返すか、良いもので返すか


 さて、車を運転している時、どうしても車線を変更しなくてはならなくなったとします。ウインカーを出し、ハンドルを切ろうとした時、後ろの車が明らかに『入れてやるものか』と悪意をもってスピードを上げてくる。そんなこと経験されたことありませんか?とっても嫌な気持ちになりますよね。そしてそんな時、別の車が今度は自分の前に入ってこようとしたとします。するとつい先ほどの嫌な記憶がよみがえってスピードを上げたくなる。そんな思いになりませんか?『ない!』と言える方は幸いですね。
 私達の心は他の人から『悪意』をぶつけられると、ついつい自分の中の『悪意』が頭をもたげてきます。上司に怒られたら部下に八つ当たりしてみたり、得意先でクレームをつけられると奥さんに不機嫌な顔を見せたり、親に文句を言われたら、弟や妹をいじめたりする。思い当りませんか。

良いものには良いもので反応する

 でもこのことは逆もまた言えるのです。随分昔に読んだ本にこの様な事が書いてありました。ニューヨークに一人のバスドライバーがいました。彼は毎朝通勤ですし詰めになるバスを運転していたのです。そしてそのバスの乗客は皆、仕事に疲れ、イライラし、無口で背中を丸め、うつむいていたのです。ある時そのドライバーは聖書の神に出会いました。そして彼はバスに乗って来る人に『おはようございます』と元気に声をかけるようにしたのです。初めは、みな怪訝な顔をし、それに応える人は誰もいませんでした。でも、次第に『おはよう。GOOD MORNING』と返す人が出てきたのですね。そして、やがて彼の運転するバスの中には笑顔が溢れる様になりました。会話が生まれるようになったんです。そしてこの現象はバスの中だけに止まらず、乗客それぞれの職場にも広がっていったというのです。私達は『良いもの』を受ければ『良いもの』で反応しようとするのですね。

心が壊れたり、心が潤されるのも返し方次第

 今日この番組をお聞きのみなさんは、良いものを受けておられるでしょうか?それとも悪いものを受けておられるでしょうか。私達の身の回りには、嫌な事・辛い事・不愉快な事・悲しいことが溢れています。また近所の人や会社の上司・同僚、また学校や家族の中の人間関係で傷ついたり落ち込んだりすることもたくさんあります。日々『悪いもの』が私達に襲い掛ってくるような時代です。でもよく考えてみると、そうとばかりも言えません。私達はこの奇蹟といっても良い素晴らしい命が与えられていますし、見事な身体も与えられています。聞くことができる耳。見ることができる目。歩く事のできる足。考えることのできる頭脳。更にこの地球も空気も水も太陽も美しい木々や花々も。そして私達の食物となってくれる命達も。全てが与えられたものです。良いものをたくさん受け続けているのですね。しかし残念ながら私達はそれらには目が向かず、『悪』に反応しがちです。その結果『悪』に対して心の中の『悪』が反応してしまうのですね。

悪を返さずにはおれない私たち

 私達は心の中の悪が噴出する時、一瞬スッとしたような気になることがあります。例えば人に怒鳴られて、自分も怒鳴り返したとき『あースッとした』と感じることがあるのです。確かに相手にダメージを与えたのは間違いありません。でも、それは同時に自分もダメージを受けていることをご存知でしょうか。怒りや憎しみの感情は、それを発する人間の心をも壊していくものなのです。しかし愛や喜びや親切といった感情を私達が回りに提供する時、その事によって相手以上に自分の心も潤されます。悪に対して悪で報いる時、私達は豊かになる事はなく、かえって心が苦くなります。逆に『善』で報いるならば心は潤されていくのです。でも果たしてそんな事が可能でしょうか?私達は悪をぶつけられたら、どうしても悪を返さずにはおれない気持ちになってしまいます。

悪に対して愛で返されたキリスト

 今から2000年ほど前、究極の『悪』に対して、怒りではなく愛で応えられた方がおられました。イエス・キリストです。イエスはそのご生涯のどこを切り取っても、十字架刑という残酷な方法で殺されることは何一つされませんでした。しかし当時の権力者達が愚かにも自分達の立場を守るためこの方が邪魔になり、葬る事を求めたのです。そしてその願いが叶い、イエスは十字架に付けられました。もしイエスが本気で十字架から逃れようと思えば、逃れる機会はいくらでもあったのです。しかしこの方はそうはされず、ただ黙々と十字架に向かって行かれたのです。なぜ何も悪いことをしていないのに殺される事を受け入れられたのでしょうか?なぜこの様な理不尽な仕打ちに怒らなかったのでしょうか?なぜこんな不正を赦されたのでしょうか?なぜでしょうか? 

新しい命を受け、新しい人生へ

 イエスはある時こう語られました。『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるためなのです。』人の子とはイエス自身の事です。イエスはご自分の命を与えるために来た、と言われたのです。私達が今持っているこの命もある時貰ったものです。しかしイエスがここで、与えると言われた命は、私達が今持っている命とは違います。『新しいいのち・永遠のいのち』のことなのです。この命を受けることによって、私たちは今までと全く違う人生を歩むことができるようになるのです。喜びと感謝に溢れ、死さえ突き抜ける希望を持つ人生に変えられるのです。悪に対して悪で報いず、善で悪に打ち勝つ生き方が、この時初めて可能になるのです。聖書は『努力して聖人になれ』と言っているのではありません。イエスが与えると言われた『いのち』を受け取ればいいのです。その時、あなたの人生は変えられます。今まで見ていた景色とは違った景色が目の前に開けていくのです。努力して良い人間になる人生ではなく、神から素晴らしいものを受け続ける人生が始まるのです。イエスを信じ受け入れて下さい。新しい人生に出発して下さい。心からお勧めしたいと思います。

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