「人生の転換 持つことから在ることへ」
私は先日あるクリスチャンのご家庭に泊めていただきました。そこにはたくさんの洋ランの鉢植えがありました。中に一つピンク色のきれいな花が見事に咲いていたので思わず見とれてしまいました。と言うのは花の形がとっても変わってるんですね。正面に向けて咲くんですが、下の花びらが壺のような形をしているのです。何という品種ですかと聞くと、パフィオペディルムと教えられました。直訳すると「女神のスリッパ」だそうです。まあそう言われてみるとスリッパを下に向けたような形にも見えます。実はこの花の蜜を吸いに来た虫たちは、片っ端からこの壺状の袋の中に落ちるんですね。そして這い上がろうとしても上ることはできないんです。壺の内側の繊毛は下に向かって生えているので、ガラスを垂直によじ登れる虫ですら落ちてしまうんです。脱出方法はたった一つだけです。2か所ある天窓に向かって飛び立つことなんですね。そしてこの二つある窓のところに雌しべがあり、この窓を出ていく虫に付着してる花粉をキャッチするようにできてるんです。私は解説を聞きながらその見事な設計に感心しました。こんなの絶対偶然でできないなあと。なんてうまく作られているのだろう。花の美しさに見とれるだけではなく、これをお造りになった神様の賢さに心が向かざるを得ませんでした。そうしてキリストの言葉を思い出したのです。
見事な設計の花は神の知恵深さを表す
実は洋ランという植物は大変栽培が難しく、ちょっと手を抜くとすぐに枯れてしまうものだそうです。まさに今日あっても明日は炉に投げ込まれるような、はかない植物なんですね。しかし、この弱々しい花に対して神様は惜しみなく知恵ある設計を施しておられる。とするなら花よりもはるかに優れている人間にはどれほど惜しみない祝福と愛を注いでおられることだろうかと思ったんです。と同時にこの世界に存在するものの目的についても考えさせられました。見事な設計の花は神の知恵深さを見事に表すことで神を褒め称えています。花そのものは、はかなくも枯れていきますが、花が指し示した神の賢さはそれを見た人の心の中にいつまでも残ります。一時的にしか存在できない植物も、永遠の神様の偉大さを表す作品であるが故に、永遠の存在価値を持った作品だと言えるのではないかと思ったんですね。
人生の永遠の目的とは
花ですらも永遠の存在価値を持っているとするなら、私たちの人生にも必ず永遠の目的があるはずです。あなたの人生には崇高なる目的が必ずあるんです。では崇高なる人生の目的とは何なんでしょう。ズバリ神の素晴らしさを表すことにあるのです。一輪の花ですら神様の賢さを表すことができるのです。ましてや人間はどれほど作者である神の美しさを表すことが期待されているのではないでしょうか。ところが人間は自分の造り主から離れ、神なんか関係ないという生き方を選び取りました。神様から離れたままで人生を充実させようとして、何かを所有したり、何かを達成したり、何かを実現することに人生の目的を置いて生きているのです。しかしこの生き方からは本当に深い満足を得ることはできないのです。
自分のしたいことを全部実現しても…
今から40年ほど前にアメリカにハワード・ヒューズという人がいました。20世紀を代表する億万長者で、当時の世界の富の半分を持つ男と言われた人物です。大よそやりたいことは全部やってそして実現した人です。世界最速の飛行機を飛ばしたいと願ってそれを作り、自分で操縦し、世界一周をやり遂げた人です。映画を作ってアカデミー賞をとり、船を買い、豪邸をいくつも持ち、好きな外国に別荘を建て、アメリカの大統領を自分の言いなりに動かすことができた人です。あらゆる性的な快楽を求め海外旅行し、事業を成功させました。しかし彼の生涯の終わりはひどいものでした。髪の毛は伸び放題、ひげもそらないまま爪は伸びきって黄色に変色し、らせん状にまがってました。ラスベガスの超一流ホテルを一軒丸ごと買い取り、そこのスイートルームに閉じこもり、ほとんど一歩も外に出なくなったのです。麻薬中毒になり、人間不信になり、最後は飛行機の中で移動中に亡くなりました。190cmあった身長はアスピリンの使い過ぎで10センチ以上縮み、人相も変わり果ててたので、本当に本人かどうかが分からず、FBIが乗り出して指紋照合したほどです。自分がしたいこと全部実現しましたが、したいことの実現の中に彼が求めていた満足も平安も喜びもなかったのです。と言うのも実現させるや否や次に実現したいことに駆り立てられて、一生欲求不満にとどまってしまったからです。
大切なのは「持つ」ことではなく「ある」こと
ユダヤ人の社会学者の中にエーリッヒ・フロムと言う人がいます。彼は『持つべきか、あるべきか』という本の中で所有思考と存在思考の二つの生き方を紹介しています。所有思考の人は、自分が何を所有し、獲得し、達成したかを基準に自分の人生の価値を計ろうとします。しかし存在思考の人は所有や達成を人生の目的ではなく、成長のための手段であると考えるんですね。存在思考の人にとって一番大事なことは、「持つ」ことではなく「ある」ことです。彼らの目指す最終ゴールは人生の出来事の一つ一つを達成したかどうかではなく、それらを通して自分が人間として広げられただろうか、深められただろうか、成熟しただろうか、神が意図した自分に近付くかどうかという観点で見るのです。もし「持つ」ことではなく、「ある」ことに自分の人生の目標を置くなら、そういう人にとっては、もはや失敗というのはりません。今自分が取り組んでることがうまくいってもうまくいかなくても、どっちに転んだとしても全てが人格形成のために意味ある有益な人生経験であると知っているからです。
あなたはあなたであったか
もう一人ユダヤ人哲学者の言葉を紹介いたしましょう。マルチン・ブーバーという人です。彼はこんなこと言っています。人が死後神様の前に立った時、神から聞かれることは、「あなたはモーセのようだったか」ではない、「あなたはエリヤのようだったか」でもない、「あなたは神が意図したようなあなただったか、あなたは神が与えたあなたの人生を歩んだか、あなたはあなたであったか」であるというのです。キリストはおっしゃいました。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて与えられます。」
人がすべきことは自分の国と自分にとっての正義の追求ではなく神の国と神の義を求めることです。では神の義とはなんでしょう。神様によって与えられる義とはキリストによる救いのことなのです。あなたに肉体を与え、自由意思を与え、人生を与えた神様は、あなたに罪の赦しを与え、人生の目的を与え、その目的を正しく見る心を与え、死に打ち勝つ永遠の命を与えてくださるのです。どんな人の人生もキリストによって完成に至ることができるのです。どうぞこのキリストを信じ、神による救いをいただいてください。心からお勧めいたします。