旧約聖書
「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。…主の御告げ。…わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
(イザヤ書66:2)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.565 2011年1月23日

「自分と向き合いキリストを仰げ」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は、先日、眼科の先生が涙について解説した物を読みました。悔し涙は嬉し涙よりしょっぱいって言うんですね。実は涙には反射性分泌によるものと情動性分泌によるものがあるそうです。反射性分泌と言うのは目を守るために常に分泌している涙です。情動性分泌というのは嬉し泣きや悔しくて流すときの涙なんですね。

涙腺は三つの神経の支配を受けている

 実は涙腺というのは、三叉神経、交感神経、副交感神経の三つの支配を受けているそうです。交感神経というのは別名、戦闘神経です。戦いモードの神経ですね。副交感神経というのは別名リラックス神経です。緊張を緩める神経なんですね。さて、嬉しいときは副交感神経がよく働いて、薄くて水っぽい涙が出ます。しかし、悔しい時や腹が立った時には、交感神経が働いてナトリウムの多い涙が出るんです。悔し涙がしょっぱいというのは化学的に根拠のある話だっていうんですね。

心と体が複雑に絡み合っている人間

 私はそれを聞きながら人間って心と体で生きているんだなとつくづく思いました。心で感じるものが喜びの時と怒りの時では体から出るものまで違ってくるって言うんです。心と体は互いに密接に結びついているんだなって思いました。心で思ってることは言葉や表情で隠すことができても体は正直に反応するものなんですね。

あるカウンセリングルームの方の話

 以前こんな話を聞いたことがあります。あるカウンセリングルームに勤務している方のお姉さんが、交通事故で亡くなられたのです。しばらくするとその方の首が回らなくなってしまいました。マッサージをしても温めてもまるで駄目です。コンクリートで固めたみたいに首ががっちりロックされて動かなくなってしまったんですね。それで勤務先の所長に訴えました。私の首が回らなくなったのはたった一人の姉が亡くなったのに十分泣く間もなく、次から次へと仕事が入ってきたからだと思います。十分に喪に服するという作業ができなかったので今になって悲しみが表に現れ、首が回らないという症状に出ているんだと思います。

所長は意外な所見を伝えた

 ところが所長は、意外な所見を伝えたのです。「いや、私はそうではないと思うよ。あなたはお姉さんをひどい事故で亡くしてしまって心のどこかでほっとしているのではないかな。そう思うのは当然だと思うよ。だってあなたのお姉さんはずいぶんあなたに対して支配的で高圧的だったからね。そのお姉さんが亡くなってもう支配されることはないと思い、何とも言えない開放感を感じているのではないかな。でもそれを認めたら自分はなんと冷たい人間かということになる。身内を亡くしたのにひそかに喜んでいる自分をあなた自身が認めることができないでいるんではないですか。内心ほっとしているのに悲しみを自分に強いているのではありませんか。」

何て失礼なこと言うんですか

 その時彼女は食って掛かったそうです。そんな失礼な、何ていうこと言うんですか。ところがそういった瞬間、首が治ってたんです。彼女の首のトラブル原因は、自分の心ときちんと向き合わず、封印し、気付かないようにしていたことでした。本当は悲しみだけではなく内心喜んでいる自分を真正面から見据えて、これが私と言う人間の正体です。私はこんな人間なんですと認めるのが怖いのでそれを封印してきたのですが、そんな自分を自分の心に代わって自分の体が罰していたというのです。

聖書が語る罪の本質

  時々、福音を聞く方々の中に、私は自分の罪が分からない、という方がいらっしゃいますね。どうして罪がなかなか分からないんでしょうか。いくつか理由があると思いますが、その一つは自分自身の本当の姿と対決しないからだと思います。自分の心と正面から向き合わないからです。どうして自分の本心と向き合わないんでしょう。それはパンドラの箱を開けることだと薄々気付いているからではありませんか。どうして私は最近イライラするんだろう。なぜ私はこんな些細なことで切れてしまうんだろう。どうしてこの話題になるとどうにもならないほど怒りっぽくなってしまうんだろうか。その本当の理由はご本人の心自身が一番よく知っているのです。ところがその心の正体と言うのは、実は、恨みがましく、ねちっこく、冷たく、残酷で、そしてとことん自己中心的なのです。多くの場合自分に絶望するのが恐ろしいので真正面から自分と対峙できないのではないでしょうか。そして自分を吟味するというこの面倒臭い、うっとうしい作業をしないで先送りし、自分に対して知らんぷりを続けてきた結果、人生に歪みやひずみが生じてしまうのではないでしょうか。そうして、私は罪が分からないと思ってしまうのではないでしょうか。

醜い罪の性質を持っている私たち

 私たちが醜い罪の性質を持っているこの自分の心に向き合う勇気を持てないもう一つの理由があります。それは神という方を正しく知らないからです。聖書の中に、神とはどのような方なのかと言うことについて非常に正確にわかりやすく宣言している個所があります。こう書いてあるんです。

「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。──主の御告げ──わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
 ここに神について三つのことが語られています。

全てのものをお造りになった方

 第一に、世界に満ちている全てのものをお造りになった方、それが聖書の語る神創造主であるっていうことです。この宇宙も、また自然界も、そしてあなた自身も、神様の手による作品なんです。そして神様は作者なんです。そして作者は作品が壊れた時に修理することが、お出来になるのです。

へりくだる者に目を留められる方

   第二に、神が目を留める者はへりくだって心砕かれてるものだっていうことなんですね。傲り高ぶり、自分の中にある暗黒を見たこともなく、傷ついたこともなく、立派な者だと考える人ではありません。心砕かれるものとは自分の罪を悲しむ者のことです。そして神様は自分の罪を悲しむものを温かく見守り、目を留め、そして愛さずにおれない方なのです。
 

福音におののく者に目を留められる方

 第三に神様が目を留める者は、わたしのことば、神のことば、聖書の約束、聖書の語る福音におののく者だというのです。神のことばにおののくというのは、自分の中に何の希望も見出すことができず、ただ頼みとするのは神様のことばのみですという態度に立つ人のことです。神のことばとは一体何でしょう。いや、神のことばとは誰でしょう。イエス・キリストのことです。キリストは私たちの罪を全て背負ってあの十字架に架かり、私たちに代わって神からの刑罰を引き受けてくださったのです。私の正体がどんなに底抜けに醜い者であるかを十分に知ったうえで、私を愛し、私を滅ぼす恐るべき罪を引き受け、身代わりに死んでくださり、また墓に葬られ、三日目に復活してくださったのです。

救いをもたらす唯一の方法

 このキリスト以外にあなたが地獄に行かない道はありません。キリストだけが唯一の救いなのです。どうぞ自分の罪に向き合ったならば、次にはキリストを仰ぎ、この方を救い主として迎え入れてください。そうすれば神様に救っていただけるのです。心からお勧めしたいと思います。

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