No.561 2010年12月26日 「キリストに向かって叫べ」
おはようございます。高原剛一郎です!
先月我が家にちょっとした事件がありました。その日の朝私は娘と一緒に散歩に出かけようとしたんです。すると一羽の白い小鳥が地面にうずくまっているではありませんか。私は手の平の中にそれを包み込みました。するとぶるぶると震えていたんですね。早朝の寒さにやられたのか、まったく元気がありません。すぐに部屋に戻って温めてやると、指や肩に乗ってさえずり始めたんですね。これは明らかに飼われていた小鳥なんです。それで飼い主が見つかるまで私たちは預かることにしました。
わたしはペットショップに行って、鳥かごとエサを購入しようとしたんです。ところがお店の方はちょっと待ってくださいと言って、私を別のコーナーに連れて行ったんです。そこにはたくさんの迷子ペットを探すポスターが貼ってあったんですね。飼い主にとっては家族のように大切なペットなのでしょう。ハンドメードで作ったそれぞれのポスターには何とか見つけ出したいという熱意が表れていました。
魂の親である創造主なる神
私は鳥かごとエサを買って家に戻りました。そして小鳥の目の前で鳥かごを組み立てたんです。そして鳥かごが完成したときびっくりするようなことが起こりました。なんと迷子の小鳥は自分からかごの中へ入っていったんです。鳥かごと聞くと私には束縛のイメージがあるんです。不自由という印象があるんですね。ところがこの小鳥にとっては安全な家なんです。きっと前の飼い主によってとっても大切にされていたんだと思うんですね。ここに入りさえすればもう大丈夫なんだと言わんばかりに、自発的に鳥かごの中に入っていく姿を見ながら、できることなら本物の主人のもとへ戻りたいんだろうなと思いました。しかしこの鳥には戻り方が分からないんですね。私はたくさんの飼い主が作ったポスターと鳥かごに飛び込んでいく小鳥を見ながら、神様と人間の関係を思いました。神は人間を愛して生かして育ててくださった魂の親です。そして人間は良き飼い主なる神のもとから離れ迷子となり途方にくれている失われた者なのです。
私たちを探し出し、連れ帰ってくださる神
神様はあなたを愛し、あなたのことを案じ、あなたを祝福したいのです。そしてあなたも何かしら大きな存在に守られ、力づけられ、許され、平安でありたいと願っておられるのではないですか。ところが自分では神のもとに帰る帰り方がわからないのです。神様から離れて神様がおられることすら分からなくなっている人もおられるほどです。人は自分のアイデアや力では神のもとに戻ることができません。そこで神の方から人間を探し出し連れ帰ってくださる救い主を遣わしてくださったんです。この神からの救い主こそイエス・キリストなんです。このキリストの誕生を祝うのがクリスマスですね。さて聖書の中にこんな御言葉があります。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
求めるものには必ず答えてくださる方
ここから三つのことを考えたいと思います。
第一に神は私たちを一方的に愛してくださったということです。神様はあなたを一方的に愛してます。なので私たちが神様に求めるならば必ず神についても救いについても聖書についても分からせてくださるんです。
昔、中国の奥地に宣教に出かけたイーデス・シェーファーという人がこんなことを書いています。雲南省の奥に行くとリス族という少数民族がいます。あるとき一人の男が山道を歩いていると道に一枚の破れた本のページが落ちていました。拾ってみるとそれはリス族の宗教の本なんです。そこにはこう書いてありました。神はたくさんいるんだろうか、いや唯一に違いない。ならば人は手で作ったたくさんの偶像を拝むべきだろうか。いや、唯一の神のみを拝むべきだ。彼はこの一言に発奮し自宅の偶像祭壇を叩き壊します。それからしばらくして彼の娘さんが重い病気になるんですね。村人はきっと神々のたたりだと恐れるんです。しかし彼は近くにある一番高い山、三千メートル級の山に登って神に叫んだんです。もし神が生きているなら祈れば答えてくれると考えたからです。それで大声で「唯一の神様、あなたが本物の神様なら娘を癒してください!」と訴えたのです。下山すると娘さんはすっかり治っていました。
やがてそれから何年もたってから宣教師が聖書をたずさえ唯一の神と救い主キリストを伝えたとき、あぁその方のことなら既に信じています。ただ名前を知らなかっただけです。と言って、イエス・キリストを受け入れたのです。彼は後に伝道者となってリス族の間で大いに活躍するのでした。そしてこのような例は枚挙にいとまがないそうです。神様は真実に神を求める者には必ず分からせてくださいます。なぜなら人を愛しておられるからです。
十字架によってもたらされた永遠のいのち
第二にキリストは私たちの罪を取り除くために十字架にかかってくださったということです。キリストがそのようにされたのは私たちの罪こそが神の祝福である永遠のいのちを遮るものとっているからです。
先日、私の友人が心筋梗塞の手術を受け、まるで別人のように元気になっていました。心筋梗塞というのは心臓に行く欠陥が途中で詰まってしまって血液が流れない状態になって起こる病気です。心臓の方は正常でも途中で何かの詰まりがあるため大変な負荷が心臓にかかるんですね。その苦しさは言葉では言い表せない程であるそうです。ところでどんな手術をしたんでしょうか。ステントというチューブを欠陥に入れ、今までふさいでいたところを押し広げてやるという、そういう手術なんです。この手術のおかげで、ダムが解放されたかのように血液がスムーズに流れるようになったんです。彼の全身に元気がみなぎるようになったのは、血液をせき止めていた障害物を取り除くことによってもたらされたものなんです。
キリストは罪という問題をご自身の身に負うことによって、取り除いてくださったんです。これによって神様の永遠のいのちを私たちのもとに届けることができるのです。
十字架と復活に表された神の愛
第三に、神様の愛は言葉だけではなく、キリストの十字架の死と復活という行いによって疑いようがないまでに表されたのです。ですから私たちは素直にこれを受け取るだけでいいのです。
先日数年ぶりにある地方の集会に参りました。彼らは私の妻が昨年亡くなったことを知っています。しかし誰もその話題に触れないのです。どう声をかけていいのか分からないんですね。そのまま二日目の昼になったんです。彼らは私を集会所の建物の裏に散歩にでも出かけたらどうかと何度も何度も勧めるんです。私は重い腰を上げてその裏庭に行ったとき息をのみました。そこには妻の愛したコスモスが一面に咲き乱れる畑となっていたからです。私は彼らの愛を見ました。言葉ではなく風景によってです。神様の愛も見ることができます。キリストの十字架と復活という事実によってです。
> どうぞあなたの救い主としてイエス・キリストを信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」