No.559 2010年12月12日 「インマヌエルのクリスマス」
おはようございます。高原剛一郎です!
15世紀のイタリヤ、フィレンツェという芸術の都に、マゴスチーノ・アントーニオという彫刻家がいたそうです。彼はあるとき、途方もなく大きな大理石を手に入れることができます。自分の芸術家人生を賭けた大作を作ろうと思い立つんですね。ところが、実際に取り掛かってみると、素材のサイズが大きすぎて彼の才能では消化できなくなっていくんです。何度も何度も彫っては変更し、変更しては彫っているうちに、無残な石の残骸になり果ててしまうんです。この大理石は長い間ゴミ扱い同然で放置されたままになるんですね。ところが、アントーニオがこの石を見捨ててから40年後、この中途半端な残骸に惹きつけられる人物が登場するのです。その人物こそ天才ミケランジェロでした。彼はこのいびつな形の大理石に向かうや否や、一気呵成に作品を仕上げます。それが今日世界的に有名なダビデ像だと言われているんです。
人を再生させるために送られた救い主
私はミケランジェロのダビデ像の作品もさることながら、この創作エピソードに、より心惹かれます。なぜなら神が人類にしてくださったことを連想させられるからです。人間の作者から離れた人間は、あっちこっち衝突を繰り返し、実にいびつな存在、いびつな関係、いびつな社会を作り出しました。しかし、神は決して人間を諦めておられません。この人間を神の意図の通りに再生するために救い主を送ってくださったのです。この救い主こそはイエス・キリストなんです。
今日キリストの誕生を紹介する聖書の言葉をお知らせしましょう。み使いを通して言われた言葉です。
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
キリストがこの世界に来られた意味
ここにキリストがこの世に来られた三つの意味について語られています。
第一に神は約束したことを必ず守る方であるということです。イエス・キリストが生まれる前に書かれた聖書のことを旧約聖書と言います。旧約聖書にはやがて救い主がやって来るという約束が350箇所にわたって書いてあるんです。キリストはどこで生まれるのか、どの家系から出るのか、どんな女性から誕生するのかなどなど。それら350の予告をことごとく満たして登場したのがイエス・キリストなんです。
今年の10月24日は私の結婚記念日でした。ところがこの日をどういうわけか私の誕生日だと勘違いしておられる方がいるんですね。海外在住の方なんですが、初めてお会いしたときに彼女は私のために特別に祈り続けるということを約束してくださったんです。大変高齢な方なんですが、私を忘れていないということを示すために、毎年結婚記念日に誕生プレゼントを送ってくれるんですね。今年もくださいました。若干勘違いはあるんですが、プレゼントを頂くたびに嬉しくなります。この方の言うことなら信用しても間違いないなと思えてくるんです。10年以上も欠かさずに祈り続けるという約束を果たしてくれているからです。神様は契約の神なんですね。契約とは約束という意味です。どんなことがあっても一度した約束を守り抜く神こそは、信頼に値する方ではないでしょうか。
私たちと共におられる神、イエス・キリスト
第二にキリストは人と共にいてくださる神であるということです。11歳で亡くなった女の子の詩に次のようなものがあります。「わたしの喉が痛いとき、あの子の喉も痛み、私が夜咳をするとき、あの子も夜目を覚まして咳をする。私がママにしかられて泣くとき、あの子も私と一緒に泣いてる。夕日に映る私の影法師のようにあの子はいつも私と一緒だ。」あの子とは誰を指しているんでしょう。キリストのことです。誰も理解できない不安と恐怖の中で、たった一人だけ私と連帯して共感して共鳴する救い主を、親友であるあの子と呼んで詠ったうたです。
娘がまだ幼稚園の頃のことです。家の近くに大きな雷が何発も落ちたことがありました。あまりの衝撃に彼女は途中で目を覚まして、そして起き出すんですが、私の書斎にまで布団を引きずってやって来たんですね。そして「お父さん今晩ここで寝ていい」って聞くんです。「いいけど相手はしてあげられへんで。お父さん仕事あるから。」「うん、それでもいいねん。」そう言って私の部屋の床に布団を敷いて寝てしまいました。その直後にもう一発でっかい雷が落ちたんですが、彼女はすやすや眠っていたのがとても印象的でした。娘は雷を止めてくれとは言わなかったのです。そんなこと言われても私には出来ません。しかし、雷が鳴ったまま、嵐の只中で一緒にいて欲しいといったのです。一緒にいて見守っていてくれるんだったら、雷の只中でも安息できるっていうんですね。もし神があなたと共にいてあなたを見守っていてくださるなら、人生の問題そのものが消えてなくなってしまうことがなくても、その問題の只中で神の全能の力に支えられるのでありませんか。キリストはあなたの問題の只中に降りてくることができる方です。なぜならこの方は神であるのに、人となってこの世に来てくださった方であるからです。
罪という敵から救ってくださるイエス・キリスト
第三に、この方が来られた目的はご自分の民をその罪から救うためです。罪って何でしょう。自分を創ってくださった神を押しのけて生きることです。神様を無視して自己中心の生き方をすることです。そしてこの点で人類は一人残らず罪人なんです。そしてこの罪の結果、人間は生きている間は、争い、責任を押し付け合い、死の恐怖を抱え、そして死んだ後には裁きを受ける者となってしまったのです。人は罪と死の奴隷に成り果てているのだと聖書は語るのです。この罪と死という敵から私たちを救うためにキリストは来られたのです。
鎌倉市に東慶寺というお寺があります。ここは江戸時代駆け込み寺として知られていたお寺でした。実は徳川時代、全ての神社仏閣は治外法権的な特権をはく奪され、寺社奉行のもとにコントロールされていたのですが、このお寺の第20代目の住職が徳川家康の遠縁にあたる人物だったのです。それでここだけは例外的に駆け込み寺という特権が与えられたのでした。江戸時代、暴君的亭主に死ぬような目に遭わされていた妻たちは、とにかくここへ駆け込みさえすれば何とか助かったんですね。この敷地に一歩でも入った瞬間から幕府の権威の守りの中に入ることができたんです。キリストはすべての罪人にとって駆け込み寺のような方です。この方の中に逃げ込む人は誰一人もれることなく罪許され、死後の裁きから逃れ、神の子とされるからです。
どうぞあなたもイエス・キリストを信じ、心の中に迎えてください。心からお勧めしたいと思います。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)